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2008年えびすだいこく100キロマラソン-②

100キロメートルを自分の足で走る。

100キロ先の目的地をカーナビにより普通道路優先でサーチすると、所要時間は5時間以上と表示される場合もある。

正月の定番、ゴールで倒れこむシーンがしばらくは、目に焼きついて離れない箱根駅伝は往路108キロ、復路109キロの東海道を精鋭5人のランナーで走リ抜ける。

優勝チームは5時間30分程度でゴールする。(時速20キロに近い。これも凄い!)

思えば長い道のりである。

まさか、この自分が、フルマラソンやウルトラマラソンたるスポーツにのめりこむことなど、10年前に1キロジョグを開始した当初は考えも及ばなかった。

それが・・・年々少しづつ変化(変態化?)する自分を楽しみつつ、人生4度目のウルトラマラソンに臨んだ。

ここで、参戦レポートを書く前に準備について少し・・・

ウルトラマラソンに挑むためには、やはり3ヶ月程度の準備が要る。

毎月フルマラソン等にエントリーする。そして直前1ヶ月には50キロ以上のロング走を1度でもよいからこなす。(メンタル面の補強目的もある)

特に独りきりのロング走は、モチベーションなくしてあり得ない。

(これがドMの世界に誘う契機に?)

また、直前の体調管理はこと重要である。

出張も控え、酒も大人しく?自宅で嗜む。悪い友人もそれを察してか、暫く連絡もなくなる。(いや迷惑も顧みず、自分がいかに友人を誘っているかを思い知ることになる!?)

直前練習は、必ず本番のイメージと重ねて行なう。

特にえびすだいこくマラソンは、驚くほど高い山こそないが、前半から険しいアップダウンが続く。この島根山脈を縦走するコースに、折り返し地点を過ぎる辺りから我が愚かな足(愚足?)が悲鳴をあげる。

筋肉が必要!

そのためレース前は努めて山に向って走る。この時期に限り、自慢の海のコースに背を向け練習することが多い。

レース後半より終盤は宍道湖を望む平坦なコース。しかし、後半の直線コースは意外に堪える。足は疲労の蓄積により、停まりかけることもしばしば。

そのためには実践さながらのダラダラ感が必要!脳(?)と筋肉の持続力を養成するトレーニングだ!

これには、独りでゆっくりと半日程度、だらだら走ることが効く。

次に食事である。

カーボローディング。

訳すと炭水化物 喰いまくり修行!

ここら辺り、実は栄養学などの不勉強がたたり特別なことはしない。

(中学校の家庭科の先生はYMOのイニシャルTのお母さんでしたが・・・失礼!)

むしろ普段から食いまくっているから余計なことは考えまい。

また、ポパイにほうれん草、ランナーにバナナ

これだけは自分で購入してきてでも食べる。しかも一日3本!モンキー失敬!!

そんな訳で大会に対する3ヶ月前からの準備はほぼ怠りなく進み、開催日の1週間前より当日が待ち遠しくて仕方がないほどであった。

「早く走りたい!」

ようやく待ちに待った出発の日。

2008年えびすだいこく100キロマラソン―①

この広い地球上、二本足で唯一長時間走ることが出来る哺乳類はヒト科だけ。

現存する検体数(?)で概そ63億人とか・・・

車、飛行機、電車、船・・・移動手段に事欠かず、ありとあらゆる選択が可能な現代人。

資源高騰のあおりで、このところは日本の誇る最先端の産業でもある自動車の陰が、めっきり薄れてゆく感がする。そして地球温暖化現象などの環境問題が、現状のままの移動手段に疑問を投げかける・・・

そんな折のマラソンブーム!自分の2本の足だけで走ることに喜びを感じる人が着実に増えている。それにつれて大会数も増加傾向にある。

2008年、5月25日の日曜日

場所はテレビによる、大人の県別認知度テストたる悪ふざけ番組によると、存在位置を把握していない1.2位を争う県、との結果が出た我等が愛する島根県!都道府県の中で、人口が2番目に少ない県なので致しかたないが、自然の美しさは文句なく1位である!

その東西を横断すること100キロメートル。

私は昨年に続き2度目のウルトラマラソンにエントリーした。

地球創生時に起きたダイナミックな地殻変動の跡をそのまま残す大地、自然の厳しい洗礼か・・・長年をかけ、波が大地を削り、その襲い掛かる波との闘う姿をさらした、奇怪な岩肌の続く海岸線。神秘的!との言葉以外に見当たらぬほど、手付かずで残る荘厳かつ雄大な島根山地の森。

そんな見る者を魅了して止まない景観続きの大自然の中、心温まる沿道の声援、ボランティアを始め、大会関係者の並々ならぬ心づくしで有名なえびす・だいこくマラソンが開催された。

私は昨年に続き2度目のエントリー。種目は個人100キロの部。

(駅伝の部もあります。数人での参加もできますので、ご興味のある方はお誘い合わせの上、是非とも!)

大会が終わり3日が過ぎ、ようやく体のダメージが収まりつつあることに幾ばくかの寂寥感を感じつつも?興奮、未だ覚めやらぬ11時間を振り返ってみる。

行きつけの床屋の店長

昨日のブログを読んでくれた友人から質問を頂いた。

何故、諭吉があそこで登場する?

一、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です。
一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。
一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。
一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。
一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。
一、世の中で一番美しい事は、全ての物に愛情を持つ事です。
一、世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。

偉大なる先人の言葉に解説する気持ちなど微塵もありません。

さて、店長といえば・・・

昨日、行きつけの散髪屋の店長から職務中に電話が入る。

こちらから予約の電話をすることはあれど、店長から電話がかかることなどありえない。

不在の伝言メモを確認した後、気になり電話をしてみることとする。

すると・・・

「今週末で店を閉めます。遠いところに行きます。大変お世話になりました。」

まあ、ざっとこんな内容。普段は必要なことでも語らない寡黙な男ゆえ、この単純な内容ですら、こちらが苦労して聞き出したことになるかもしれない。

このやりとりでは、余計に心配が募る!!

思い返せば・・・

彼との付き合いは5年間に及ぶ。毎月定期的に1時間、顔をあわせることを考えると結構頻度の高いお付き合いに間違えない。(ほとんど眠っているから、その半分程度かもしれない)

また、5年間も付き合うと、他愛もない世間話以外でも、店長の家族、店のお客さんの来店状況などの会話もでる。

この街の景況感、一般人の金銭感覚などを知る意味で、床屋の情報は実にりアルタイムに時代を伝えてくれる。そのため自分の感覚のズレに気付くことがままある。

失意による廃業なのか??悪い方に受け留めてみる。否、家庭の事情の方なのか?

「うん、これは行って確かめる他ない!」

髪の毛は気になる程ではなかったものの、その場で最後の散髪予約を申し入れる。

店長から快く了解をいただき、その日のうちに閉店の経緯をきくこととなる。

どうやら悪く捉えたのは、こちらの思い過ごしであった。

さらに驚くことには、彼は希望に燃え、来客数が減り悄然としていた少し前とは別人のように元気になっていたのだ。

その店長が選んだ道とは・・・

広島を離れ、名古屋に新たに店を構える。名古屋には、彼が散髪技術を習得した時代の後輩が3人いる。現在、その3人はそれぞれに店を経営したり、また大手散髪チェーンの従業員として働いている。今後、彼らはそれぞれの職場を離れ、我が店長が経営する店舗を手伝うとのこと。

縁もゆかりもない見知らぬ街で、新しい店を経営することに不安はないか?

親しきゆえに自分ごとの様な気持ちになり、ついつい余計な質問をしてみる。すると、彼の心に不安は一切なく、むしろ事業の拡大に対する夢が止め処もなく膨らみ続けている状態にあるとの返答。

しかし・・・自分の家族(子供2人と奥さん)とは、この一年間別れて暮らすとのこと。また、一年後に家族を名古屋に迎え入れるため、体の続く限りは休まず働き通す覚悟である、とも語ってくれた。

そんなバイタリティーがある男性にはとても見えなかった。(失礼!)

目の前にいる若者(30歳)は、以前とは異なる自信にあふれんばかりの顔つきで、その後もこちらが割り込む隙を与えないほど流暢に、夢を語り続けてくれた。

そして散髪が終わる頃、こう語った。

「最初の店が成功し、事業拡大のため出店する2号店、3号店、4号店の店長は、リスクを省みず現職を捨ててまで、自分の力を信じてくれた3人を間違えなく指名します。そして5年後に再び広島の地に戻り、地元の大勢の人が喜ぶ店を出店します!その時はまた付き合いをしてください。」

別れ際の店長のさわやかな表情を回想しながら、かって感じたことがない程爽快な気分で家路に着いた。

店長が名ばかりの管理職?

大手外食チェーンの元店長が、訴訟まで起こし遡っての残業代を請求。裁判により残業代の支払いを命じられた会社は、今後、店長職の名称の見直し、仕事内容、および給与体系の変更、労働環境をモニタリングする目的での管理機構の設立などを公表した。

これらの方針の発表を受けたメディアの多くのコメントは、企業はイメージを損なわず世論の批判をかわせる範囲に収めるだけを目的とし、本題である給与および待遇面の改善については解決に至らず問題を先送りにしたにすぎないと伝えた。

属さない会社への経営批判としては、甚だ余計なお世話のように感じたが、たしかそんな内容であった。

その記事を読み、思わずこの記事を書く人と、それを読む人について考えた。

勿論、書く人は会社を維持、運営する立場の人ではあるまい。読む人の大半を被使用人と想定。その人達に向けて、同意を得るための工夫を施したメッセージを送る。そんな狡猾さをマスコミに感じた。不祥事で老舗企業が倒産することを、当然の報いであるとだけ評論することにあまりも酷似する。

新聞、テレビの報道はいつでもキャンペーン。世論の支持が記者の最大の関心事。

良い記事とは商売でいえば儲けのネタ。視聴率や購読数を要求されるマスコミは、自分が発掘し、発信するニュースを、世論の関心事と重なるか否かが大事。要するに記事が一般大衆に受けることが重要。Y興行のコメディアンよろしくだ。

だから・・事実を歪曲させることもしばしばある。その証拠にかって続いた捏造報道などがある。(ここのところ鳴りを潜めているのは、現場が綱紀粛正に努めているのでなく、その記事自体に鮮度が薄いからであろう)

しかし、ここは冷静に考えたい。

今回スケープゴートとなった大手外食チェーンの問題を取りざたする気はさらさらない。(食事のお世話になることがしばしばあるから?!)

この企業、人員の管理方法と食品の製造方法について、25.000以上のマニュアルを数えると聞く。

傍からは実に窮屈に思えるが、それに加えて今後は造反?店長の扱い方なるマニュアルが1つや2つ加わる程度であろう。(従順な社員であれば、他に方法がいくらでもあるはず)

むしろこの問題、社会全体が1つの方向性に傾くことが怖い。

例をあげれば格差社会。

この言葉を他人に対して自分の声で発したと時、それと同時に社会的にも道徳的にも、この言葉そのものに責任を持つ。あるいは言葉の持つ印象以外の感覚を、自らの思考で捉えることが大人としてふさわしく考える。しかし実際は、むしろ責任を放棄したつもりになる人が多い気がする。(本当に弱いと自覚する人は、周囲にこの言葉を語らないと思う)

すべては他人事?いや、自分達が理想として何を掲げ、何が出来るかを考えることがコミュニティー。唯一、動物と一線を画すところのはず!

他人の悩み事を、ただ面白可笑しく聞いて、自分に降りかかりそうな不安であれば、首を突っ込み話の中に割って入る。

その結果として、社会全体が本来あるべき自由闊達な意見を妨げる風潮となる。

理想は他人の権利を迫害せず、平和に全ての人と(人種、考え方を含む)共存する社会。違う考え方でも尊重できるリベラルなコミュニティー作りを尊ぶ。

現在の立場が強い、弱い・・・そんなことだけが問題ではない。

現在はどうやら、これらの観点にだけ偏りすぎている気がする。近視眼的だ!

だから仕事は何よりも報酬(お金)が優先する!

この論理が絶対の命題とすると、その価値観はお金から逸脱できぬ。

世に拝金主義だけがはびこる。

つまりは労働の本質や本人のやる気。はたまた人生においての仕事の意義。全てはお金が代償とするとの価値観の呪縛から一切が逃れられなくなる。

(諭吉様申し訳在りません!)

何はともあれ、いかなる残業代をも支払うべきとの論理とはいささか危険である。

(完全否定ではありません、悪しからず)

またこの議題の本質を問わず、降って沸いた話にただ乗りだけを考えるとすれば・・・

規模に関わらず会社には賃金規定、社員規則がある。(会社の登記に必要)

また、すべての会社には創業者の志と企業理念が存在する。

(創業者がいなければその会社は存在しないはず。)

それらの理念を理解した上で、会社の仲間入りを果たしたのではないだろうか??

現在の世論と迎合?する心地の好いムードに安住したいためだけに、会社を窮地に陥れることを考えていないか?

企業は社会の構成員として道徳心が必要なことはいうまでもない。

言い換えると、会社にも健全なモラルを持つ社員(構成員)が必要ということだ。

一部の企業の店長が名ばかりの管理職との報道により、世間の店長の大半が、職業としての店長たるプライドを傷つけられたことを、まずは考えたくなくとも想像してみたい。

私の知人で店長を生きがいとし、またその店長を目標とする人間が多数いることをあえて伝えたい。

この事例は、店長という職業名と、それに従事する人の名誉を著しく汚したことも長く記憶にとどめるべきであろう。

他人を強制的にコントロールすることで、アイデンティティーを保とうとする擬似インテリに追従することなく、自分の価値観で仕事を捉え、いつも仕事に対して感謝の気持ちを忘れない。疑問があればその場で直ぐに解決する。決して周囲を巻き込まない。

今回の店長にはこんなことを考えさせられた。

朝の不快なもの。

毎朝の日課、お気に入りのジョギングコースではあるが、自分が独占できる時期は冬、しかも寒さが最も厳しい厳寒期に限られる。

少し寒さが緩むと、そこは内海を彩る四季折々の景観が楽しめる場所だけあり、ウオーキングを楽しむ人、犬の散歩をする人々の往来でにぎ合いはじめる。

ここまではまだ良い。しかし・・・気温がさらに上昇するこの時期より、夜に海に集まる人が増える。集団でもあり、ペアでもある様子が、海を臨む護岸沿いの道端に放置されている残滓により判明する。残滓は規則性を持ち等間隔に置き去りにされる。

実際、見ている訳ではないので宴をする人々の年齢は定かではない。お年寄りか、壮年か・・・はたまた若者かは断定できないし、また探求する積もりもない。(しかし何となく購買した品物の種類で分かる気もする)

だが、周囲の風景を損なうこと甚だしい醜い残骸は、食べ物、ゴミを詰め込んだコンビ二のレジ袋、ファーストフードの印字の入った包み、そしてペットボトルやアルコール飲料の缶。宴の様子を誰かに伝える目的があるのかと疑いたくなるほどである。

そしてこの頃は、夏の定番である花火の残骸が目立ち始める。化薬の匂いを周囲に放ちつつも・・・

ゴミを捨てる、食事の後始末をするという一切の責任を放棄した光景を目にする時、その反社会性をありきたりの精神論により一蹴するより、まずはその行為自体を現在の文化の一つとしてとらえてみた。

何故、彼らは外で食べる食べ物の後始末をしなくなったか??

1. 公園、公共機関を含め、手軽にゴミを捨てる場所が少なくなった。(過去のテロなどとの関連性が否めない。)

2. 食材、特に弁当を購入すると、仕切り、調味料の入るプラスチック容器にポリ袋などの包装材料が、食べ物になかなかありつけないほど過剰に存在する。そのため捨てるゴミが明らかに増えた。

3. いざ、ゴミを正規の場所に捨てるとしても、こと細かいマニュアルに基づく分別が要求される。このことは・・・面倒な思考を好まない人を思考停止に追い込む。細かすぎる約束事は、一定の評価が定まるまでひたすら破られることを業とする。

4. 大量に、しかも自由に持ち運んだゴミを捨てることの許されたガソリンスタンドで、近年ゴミの一切が捨てられなくなった。このことは、ゴミを所有した人が移動する際に、かなりの精神的な負荷が生じた。

しかし・・・様々なケースがあり考えても良い対策がでない。コンビニにゴミ箱を増やすとだけ言えまい。

いずれにしても見て見ぬ振りでなく態度で示そう。皆で率先してゴミを移動させる。ゴミを放置しそうなところに花を植える。また、心温まるねぎらいの言葉を添えたゴミ箱を置く。など、など今後はゴミを放置する人の持つ不満やメッセージに暖かい気持ちで応えなければなるまい。

朝が来れば心も晴れる!?

日課として毎朝ジョギングする場所は、広島市西部に位置する五日市港、廿日市港の2つの港と、それらを囲む埋め立て地を周回する9キロメートルのコースである。

毎朝、5時過ぎから走り始める。このコース中に一度も信号がないため、かって自分が創作?した数あるコースの中でもとりわけお気に入りで、定番化して久しい。

この2つの港はかっての漁港から、プレジャーボートの一大停泊地にその姿を変えようとしている。ヨットハーバーも併設され、現代的な景観に変わりつつある。

しかし海が好きな私にとって、飽くことなく海を眺めつつも趣味のランニングを楽しめる!とても有り難いことだ。至福の時間にただ、ただ感謝!である。

さて、初夏のこの時期、潮が高ければ護岸にまで大きなチヌ(黒鯛)を見ることが出来る。

また、これから秋にかけては海面にサヨリやイワシの群れを目にすることも多い。

特に秋の夜明け前は、さながら魚達の運動会の様子を楽しむことができる。

太刀魚やスズキが小イワシやサヨリの群れを追いかけるため、小魚の群れが過剰に集まりナブラが発生、波の音とは似て非なる、騒々しい音が海上のいたるところで聞こえる。

そのリズミカルに波打つ音が、海の中の情景へと想像を掻き立てる。

そのようにいつでも生き生きとした海を照らす四季折々の朝陽もまた格別である。

まさに朝のご馳走となる。

朝陽は、瀬戸内特有の奇怪な島々から一日の誕生を告げる使者でもある。

日毎に出現する場所と、大きさ、発光する色に微妙な変化をもたらしつつも、荘厳なる勇姿を誇らしげに見せてくれる。

その朝陽の照りつけた海面は、夜の深く濃い藍色から、時の経過につれ、次第に鮮やかなクリームソーダ色へと変色する。

空の色に目を転じると、こちらも鮮やかな紅色と黄金色のグラジュエーションを彩る。

赤と青。絶妙な空と海とのコントラストに日々感動しつつ、一日の始まりと合わせ常に新鮮な心持ちになれる。またまた感謝!

そんなお気に入りのコースを走り始めて5年が経過する。

しかしこの時期より、目を覆いたくなる光景が重なり気持ちをふさぐ事がある・・・・

隣国の惨状を憂う。

先日起きたミャンマーのサイクロン。中国四川省北部を中心に発生した大地震。

いずれも数万人に及ぶ死者を出した大惨事である。

災害はある日突然、平和に平凡に暮らすごく普通の人々を襲う。

完膚なきまで容赦なく叩きのめす。

災害に遭遇した人々は、その日を境に人生が一変する。

子供、親族、友人などを失う悲しみは、耐え難いものである。

それに加え家屋や財産、職業すらも失うこともある。

その内の一つでも耐え難い苦しみである。それが同時に襲いかかるとすれば、天を怨み、心底自分の運命すら呪いたくもなる。やり場のない憤りが心を襲う。

災害はあまりにも人間にとって過酷なものである。

いくら想像力を働かしても、当事者の気持ちを全てに汲み取ることはできまい。

忌々しい災害から生還した人が心の傷を癒し、以前の暮らし向きまで戻るまで、相当なる時間と周囲の支えが必要であろう。

人それぞれに、絶望の淵から一条の希望の光を見つける。そのためには乗り越えなければならない苦しみに耐え抜く力が必要である。

隣国の目に余る惨状に、今回こそ被害のなかった我々、日本人の一人一人が、救済できることは一体、何であるかを考える必要がある。

ミャンマーの現在は政情が不安定である。それゆえ援助は金銭よりも身の回りの物資が良いと思う。軍事政権に横領されるなど考えては救済は何ひとつできない。横領できないものは善意。それと物資を合わせて送る以外には、今は手立てがないと割り切る他あるまい。

(真偽は定かでないが、かって日本でも虐待を受けた犬の救済を申し出た非営利団体が献金横領で疑われたではないか・・・この手の話は疑えば切りがない!)

中国はお金、物資のいずれでも良いと考える。その代わりしっかりとしたボランティア団体に託す方が良い。

弱い人をまず直撃するのが災害。(不況も同じではあるが・・・)

他人の心の痛みを分かち合う慈悲心と、利害関係が唯一支配する国家関係については、全く別ものと考えるべきだ。

日本人には弱い国、不幸な人達を思いやる慈悲心があるはずだ!

しかし今後の災害報道は、情報に新鮮味が薄れるという理由で、次第に減少させていくことに間違えはあるまい。

(情報伝達が過去と比べ格段発達した現代では仕方がないところもあるが、批判を浴びても仕方のないほど過剰に報道する無意味なニュースなどは、マスコミの視聴率至上主義と重なるものと考える)

これからも被災地で苦しむ人々の声の多くは我々には届かない。

それゆえに苦しい事情を理解し、隣国を襲った災害を含め、政情不安や災害で苦しむ人々に手を差し伸べることを絶えず忘れない。今後もそのような日本人でなければならないと考えた。自国に不平ばかりを唱えている自分に反省しつつ・・・

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