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挨拶からみる現代人気質

挨拶(あいさつ)はもともとは禅の言葉という。 挨は迫る、拶はその迫りくる挨に対し切り返すとの意味を持つらしい。禅におけるこの語の持つ意味は、問答をくり返して相手の力量を計るとの意もあるようだ。 いずれにしても実践を行とした教えに違いない。

鎌倉時代では挨拶を「言葉かけ」と呼び、人とすれ違う時の礼儀作法であったという。

その名残りであろう。挨拶が出来ない人は「恥」との教育が過去より受け継がれ現代に至る。

他国に目を転じると、日本のお辞儀スタイルが合掌に変わることがあれど、挨拶は万国共通の儀式、いわば世界の常識的マナーであるようだ。

この挨拶,いわば日常の常識的行為をしない(出来ない?)人が、老若男女を問わず増えたように感じる。新しい人間関係のわずらわしさを嫌うかどうか・・・昨今は挨拶をする理由が減り、しない理由は増え続けているようでもある。必要であるか否かを別問題と考えることはいかにも現代的!加えて様々な礼儀作法も比例して乱れていく感がある。

毎朝のジョギング中の挨拶を自らの義務として久しいが、これに応える人々を観察しつつ現代の人間像を検証する。

私の一日は、朝のジョギングに始まる。ほぼ年中無休、5時から7時の間である。

港を周回するコースは、気候が緩みだす春過ぎより次第に賑わい始める。人々は犬の散歩、ウォーキング、ジョギングなどに興じる。このほか、マイボートを眺める、釣り、自然散策、ダイエット、リハビリなど目的も人様々である。界隈は近年の埋め立てにより新しい住宅地が増えたことに古くからある住宅が融合し、実に幅広い年齢層が居住する。

年寄りもいれば若者もいる。顧みると古き良き時代の日本の姿。また、理想的な町並みのはず?である。しかし残念なことに祭りや自治会など、一斉に集い地域の活力源となる行事は年々参加者が減る傾向にあると聴く。

さて、どこにでもある街の朝の人間の営みではあるが、昨今は挨拶をする人かしない人か、まずは互いに見極める傾向を感じる。

また見知らぬ人には挨拶をしないと、あらかじめ決めている人種も少なからず見受けられる。

すでに挨拶の習慣がある人は、待ち構えたように誰彼ともなく挨拶する。しかし、できれば目が合わない幸運?を願いつつも、挨拶をしない権利を行使する人が着実に(?)増えている。

挨拶を交わす場合、それがただ挨拶だけの関係でも互いが笑顔となる。たいていはすれ違う時間が年中変わらない常連組。つまり毎朝、決まったところで決まった人と出会う。

気持ちの好い挨拶などと考え、趣向に趣向を重ねさらに親近感が増す。声色、アクセントを変える。または「おはようございました!」などなど・・・

そんな挨拶のやりとりを気持ちよく交わす人の姿が見えないと不安に駆られる。病気でもしているのかと心配になったりもする。その人が久しぶりに歩いていると「あー、よかった、病気でもされたのかと心配してましたよ。」 それからさらに親しくなったりもする。

これらの挨拶によって人間関係がはじまることは周知のこと。

「袖擦れ合うも他生の縁。」との言葉があるように、同じこの世に生を受け、この広い地球上、よりにもよってこのちっぽけな町で毎日すれ違うなど特別なご縁であることに間違いはなし!(前世で余程の因縁があったかもしれない?)

さらに気がついたことがある。

最近では若い人から声を掛けなくなっている。(見かけで判断がつきにくいほど、この時間帯に見る人々は総じて若ぶりではあるが・・・)

その例をあげると、まずは私のようなジョギングする人で言えば・・・

自分が無我の境地にあることも瞬間的にあろう。しかし目前を歩く人が全く見えないほどの精神状態であればむしろ歩くことさえ危険である。車や電柱や障害物にぶつかることにもなる。

要するに皆、体の良い振りをしているだけだ。あいさつが億劫だから集中している姿を装う。それなら会釈や軽いお辞儀でも良いではないか。浅墓な魂胆が透けて見えるから可笑しい。

ここは若いほうから挨拶するのが原則!とまずは考える。自然に思えるのは旧人類であろうか?かっての校内の部活動では常識であった。

例外を用意するほうが無茶な話。古の慣例を変えるほどの定理が存在しない現在は、この常識から逸脱することは道徳観念上の違反行為。

次なる例外といえば犬を連れ歩く人。

この輩、人間よりも犬、あるいは人に連れられた犬仲間の方に関心があるのかとついつい疑いを持ってしまう。

ペットを持たない人間にはあまり関心を持たない。ペットコミュニケーションなるものか、互いの犬同士を寄せ合わせては大胆に道路をふさぐ。犬同志のコミュニケーションが興味の対象で、周囲には一切の関心がない様にも見える。しかし他の人間に興味を示さないわりに、身なりだけは整えるから不思議でもある。過剰にみえるほど犬と一体化することを目的とし、散歩する人やジョギングする人の空気を一切読まないことが特徴。まさに犬でもいなければ外出もできない人達であろう。

また全てとはいえないが、歩道を彼等(犬と飼い主)のため譲っても平気な人が実に多い。まるでこちらが犬嫌いの変わり者!とでも考えてるのかどうか??また、驚くほど吼えているのに本気で叱らない。申し訳程度に犬の名前を呼び、なだめるだけの話である。そこで吼えられ迷惑を被った人間に対しては顔すら向けようとしない。自分の犬へのしつけを棚に上げ、反省の気配を微塵も感じられない。その様な飼い主に限って、歩道に少しの草むらがあればたがが緩み、周囲に気配を感じなければ糞をそのまま置きざりにする。人がいなければ行動がついに犬化してしまう?

一体、手に提げた袋は何のために持ち歩く?

次に自然を親しみながら歩く、老夫婦のごく一部に見られる例。

この周辺は干潟でもあり、飛来する渡り鳥が多い。この趣味があれば見るものを魅了し飽きさせない。彼等は折に触れあちらこちらと指を刺し、道端の花々や鳥の様子を見つつ会話を楽しむ。まさに二人だけの世界でもあろう。しかしながら・・・自分達から他人に挨拶する気配はない。

また、目の前に人が捨てたゴミがあれば、仲良く息の合った歩調で見事に障害物を隔てて歩く達人!本当は一緒に歩行する目的でもないと、自然を楽しむことすらできない、風流心なき人々ではないだろうか?

最後に、単独ウオーキングに興ずる主婦はダイエットが主目的。

いつも厚手の服を着こみ登場する。この辺りは年齢の割りにいまだ羞恥心があるのか(失礼!) ご自分からは挨拶をされない。我々フォークダンス世代ゆえか。。。この乙女心(羞恥心)がお年寄りになるまで続かないことを密かに祈る。

これらの朝の風景の登場人物に言えることは、挨拶をする人は総じて表情が明るい!

心をその時、開放しているから!また、挨拶の行為により開放することもあるだろう。(絶対にいえる!)

一日のコミュニティー活動の始まりだから、まずは誰彼ともなく出会った人から始めれば良い。

人の多い都会では中々出来にくいかもしれない。しかし、職場のいつもの顔から朝が始まるのでは、いかにも一日の誕生として鮮度に欠く。

知り合いでなければ挨拶はしない、利害関係が伴わなければ挨拶がはじまらないでは余りにも味気がない。また、挨拶により開口する時まで心を閉ざし続けなければなるまい。その方が案外疲れるのではないか?

他人との関係全ては、挨拶から始まる。

見返りを求めないで挨拶しつづけるのは、不意に受ける挨拶よりはるかに気持ちがよい。

ここまで書き進んでわかったことがある。

自ら進んで挨拶を試みるが、やはり一人相撲では様にならない。

何度か試みても反応がなければ、やがて根が尽きて挨拶をやめてしまう。

こうした繰り返しが他人を悪意的に見てしまうことにもつながる!!(まさに今回のブログはその内容である。反省!)

しかし挨拶の本分が冒頭に紹介した相手の力量を諮ることといえば、挨拶をしない人の評価は、こうして挨拶する方に委ねられる他ないものだろうか?否、そこまではいきすぎであろう。

まずは挨拶を復活させよう!本来の意味を取り戻す必要性が先にありと考える。

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