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犯罪とIQ?

2008年の新規受刑者は29.000人

うち知能指数69以下は23%

65歳以上は7.2%と2002年の統計より3.6%より倍増

先日のA新聞の記事より抜粋したデータである。その後「刑務所は最後のセーフティーネット」との語りつくされたフレーズで締めくくる。この記事以外には犯罪被害者の痛ましい手記および「被害者の会」設立の経緯についての掲載がある。

これより先は読者よ、勝手に考えてくれと言わんばかりのけじめのない構成はいつもと変わらない。しかし、一般の人ではとても結論が導き出せぬ、謎が謎呼ぶ実証データにいらだたしい思いがする。

一体、記事は何を我々に連想しろというのであろうか?先日のあの忌々しい凶悪事件か?いや、公判あったばかりの有名人のあれ?今年より始まった裁判員制度に指名された人に参考知識としてあてがいたいのか?また、このデータを今後の犯罪解決の手ががりにせよとばかり、国民の共通概念として刷り込ませたいのか?

ただでさえ日々繰り返し報道される数々の犯罪に対し、国民は憤慨しつつも消化できないことをストレスとして感じている。

この状況下において、「犯罪と社会の責任」についての新種の参考データを示すから皆で考えてみよといきなり言われても無理だ!まずは頭の整理がつかなくなり、混乱するのがオチである。

挙句は新聞社に怒りを覚える私の知能指数は一体いくらなのか?また、このまま社会生活を続けてもよいか?と自らを訝る始末。

理解できず憤る理由は、以下のことが分かりにくいからである。

  • IQ69以下の人が日本人のなかで一体どれくらい存在しているのか?またそれは世界と比べどうなのか?
  • IQはいくら以上あれば犯罪を完全に避けることができるのか?200以上か?
  • IQは教育で鍛えることが可能なのか?
  • それが可能であれば現在の教育制度で充分なのか?
  • IQ指導と情操教育では、どちらが犯罪防止に有効か?
  • IQが低い人が、何らかの理由でIQが高くなると犯罪をしなくなるデータがあるか?
  • 新規受刑者のうちIQ70以上が77%(100-23=77)いるが、この数字を問題にすべきなのか?
  • IQにより犯罪の質が異なるのか? 再犯率は?

IQに対し一切の説明がないまま、数字だけをデータとして示すからこうした疑問が生じる。

多くの一般人はIQの正しい知識や分析方法すら分からない。

ただ、犯罪と関わりがあると指摘するから気掛かりになる。獏とした不安に襲われる。

知能指数は先天的理由か、それとも家庭環境や教育制度に影響されるものなのかをまず知る必要がある。

マスコミはこうしたことをデータおよび学識見解を探し、先に示すべきではなかったかと考える。

いや、そもそもIQとは何だ?子供の学力テストか?

大人がIQを測る事などあまり聞かない。それでは、犯罪者のIQは子供のそれとただ比較しているに過ぎないのか?

IQと犯罪との関連性を今後の社会が評価することが心配だ。世の中にまた陰湿な差別用語がクローズアップされたことを憂う。

広島ベイマラソン参戦記 2009

去る15日、2週連続となるフルマラソンを走る。

この鈍足ランナーを勇気づけ、また大会出場を励ましていただいた走友に感謝の気持ちとともに、レース内容を報告する。

結論から先に述べる。

「今回に限ると、自分が期待していた超回復は7日間では足りななかった!」

次に結果である。

自己ベストより9分遅く、また昨年の同大会の実績より約4分遅かった。勿論、手を抜く事を心地良しと考えないため、いつもどおり果敢に自己ベストを狙っていた。今年の2月にハーフ、3月にフル、5月に100キロといずれも自己ベストを更新していたので、この記録だけを取り上げると一週間前のレースに続き、いささか物足りない感がある。

最後に体感的である。

スタミナこそ充分であった!しかし、スピードにやや欠けていた。(元々ないが・・・)

しかし、特筆すべきは後半の粘り!

これは前レースとの間が空いてなかったのである程度は予測できた。いや、実のところ大いに期待していた。

やはりそこだけは裏切らず、35キロからの粘走には我ながら関心?していた。

さて、レース中の話に戻るが、常に7日前の下関海響マラソン後半に受けたダメージが精神、肉体のいずれにおいても強いイメージとして残存していた。

これらが走りに良い形で影響するよう努めてポジティブに考えようとした。

「疲れはある程度承知している。しかし、レース感覚は新鮮そのもののはず!前走の下関の倍を走るウルトラマラソンでもやっているとイメージし、後半のビルドアップに大いに期待する」

これらを心理的に働きかけることで、たまたまレース結果と想いが一致したに過ぎぬかもしれないが・・・

5K    22.00

10K   45.25

15K   68.00

20K   90.49

25k   113.00

42K   199.00

しかし、たかだか2週間連続である。

これでは走友に示すデータとして超回復の未達を証明することはできまい。また、前走のダメージが大きすぎたことも、少し差し引く必要があるかもしれない。だが、このスプリットに現れていない心理的効果が実在したことは事実。2週連続して走ることが、距離への不安を払拭させていたのだ。それゆえ後半、スピードこそ大きく落ちはしたが粘りの走りと感じることができた所以と自己分析している。

さて、もう少しデータ収集が必要なことが今回の記録で判明した!

レース後直ぐに「来週もフルに出場したい!」と考えはしたが、飛び入りでエントリーできる大会はなく、この案件は来年以降の持ち越しとする。3週連続がよいか、また4週か、5週以上か・・・この件の興味は尽きない。

次走の駅伝(6.1キロ)まで4週間、防府読売まで5週間ある。

それまでレース感覚を練習に持ち込み、実戦さながらのトレーニングを積みたいと考える。今度こそメガ回復で自己ベストを狙う!

下関海響マラソン参戦記 

沿道は、ランナーを応援する観衆で切れ目のない人垣である。

42.195キロメートルの間、暖かい声援が途切れる事がなかった。

観衆の応援に心で感謝しつつ、表情は実に硬かったことであろう。あごをあげ、口は大きく開けたまま、腰を前に折る不恰好な姿勢で走る。動きを忘れかけた瞳孔は目前の一点をただ見つめ続けていた。

空から見下ろすと溺れかけた昆虫が川の流れに逆らうため手足を動かし必死にもがいている様子に見えたか・・・元気のあるランナーが後から追いつき、次から次に自分の両脇よりリズムカルに走り抜ける。

「頑張れ、頑張れ、人生、頑張れ!」

のぼり坂の中腹に陣取り、手製メガホーンを片手に7500名すべてのランナーに届くように、声を張り上げ熱心に応援してくれたお年寄りの姿が目に焼きつく。またその声がゴールする瞬間まで心に鳴り響く・・・

沿道の皆様の心温まる応援に、あらためて感謝を申し上げたい。

さて、トレーニングそのものは楽しい事である。いくら追い込んでも楽しい。

トレーニングをする行為がごく当たり前のことと思うようになると、過去の自分と現在の自分が変化したことに悦びを見出す。変化は肉体と精神の両面から現れる。しかし、そのバランスとなるとトレーニングでは分からない。だから・・・レースに出る意義がそこにある。

レースで結果が出た瞬間、最大の悦びが心に怒涛のように訪れる。

しかし、長くは続かない。瞬く間に消える。

しばらくして、今度は大きな不安に陥る。その変化がまた、変化してしまうことを恐れる。

これは無常なる世の理。

練習環境は変化する。老いは容赦なく迫る。体の思わぬアクシデントもある。

さらに現在より向上する変化を望むとすれば、必然として以前よりさらに厳しいトレーニングを積むこととなる。

そのトレーニングを重ねると、継続したことに対し無意識のうち悦ぶ気持ちが生じる。するとレースに出たくなる。

つまり、こうした繰り返しによりトレーニングそのものが楽しくてやめられなくなる。

しかし、レースで満足な結果が出なかった場合はどうであろうか。

まず過去のトレーニングそのものを否定する。

自らの足りない部分をさらに厳しく見つめる。

その後はやはり・・・さらに厳しいトレーニングを積むこととなる。

その変化に安堵した頃、レースで結果がでなかった記憶、つまりはトラウマが消える。

肉体と精神面の変化を時系列的にたどると、結局はトレーニングそのものが楽しいことであり、レースがそれを教える役割に在ることを知る。

過去の自己を肯定することは、未来への道のりをよりたしかなものとして考える習慣を作り出す。

一つの道を飽きもせずひたすら精進することは、人生の意味を理解できる手掛かりでもある。

さて、一人一人に「人生、頑張れ!」と暖かいエールを贈り続けてくれた、あのお年寄りのここまでの人生を失礼ながら想像する。

おそらく困難に立ち向かい、逃げない努力を続けた人ではないだろうか・・・いや、必ずそうだろう。

何故なら、その言葉すら恥ずかしくて言えない大人が私を含め大半なのだから・・・

いや、今回は言葉を受けた全ての人がそれぞれに受けたその言葉を感ずればよい。

体など壊れろ!皮膚も裂け足も腐れ落ちろ!全て拾い集めて再生するぞ!

明日15日は7日ぶりのフルマラソンのレース、自身8度目の坂マラソンに挑む。

為政者に注文。

そこにお金がある。

それは世の人々と同じく、汗水たらし働いて得たお金ではない。

利権に群がる人が見返りを期待し、投資したお金である。

そのお金の多くは社会的活動において、正当な労働の対価やサービスの報酬の類であろう。(そう思いたい。)

しかし、集めた側は支払う人ほど苦労した訳ではない。

苦しくないから、お金そのものに本来の価値を与えない。

そのお金がたくさんあるから隠す。

必要だから、いや必要な時期が間違えなく到来するであろうなど理由付けは容易だ。

お金がどれほどあっても不足と考えるのは欲心。

一度嘘をつく。

嘘が嘘を作る、嘘の連鎖が生じる。

やがてその嘘は自分で作ったものでないとさえ考え始める。

巧みな言い逃れこそ真実の語り口と近い。

熱く語る内に無実の人を批判してみせたりする。

嘘も100度語れば真実に聴こえるもの。

しかし、一度尻ごむと見せるや身辺に責任者を立て逃れる作戦にでる。

既に常套手段になりつつある。ほとぼりが冷めるまで舞台に上がらない。

さて、お金のルールを守れなかった政治家がこの度、国家権力の頂点に立つ。

ここはまるで汚職にまみれた金権政治のタイ王国?とても世界の先進国には思えない。

と、同時に1億3千万人の国家財産を懸念する。

さて、非常事態の財政をさらに悪化させた場合、また何処からか責任者を探し糾弾させるつもりであろうか?

そうならないように厳しい目で監視しなければなるまい。

為政者が不自然な作為に憧れる限り民に平安はない。

人心は腐乱し、盗みや犯罪が増える。社会は混乱する。

将来を先取り失態を晒した領袖に汚名返上の時間を与えるとすれば、すでに相当疲弊した民衆に活力を与え、友愛のメッセージに嘘偽りがないことを示すことだ。

国家窮乏の危機にあることは万人が認めるところ、急ぐべし。

苦行探求 2009

苦しみとは生きること也。

人は生れ落ちる時、また死に向う時も等しく、もがき苦しむ。

老いて人生とは苦行の場と知る。

苦と楽を識別する分別こそ処世に拠る。

欲望と同じ数だけ楽があり、そこにはまた苦があることを知る。

分別の後、苦の道を選択するを楽也と心得る。

初めより苦を選べば、最大の苦たる「後悔と呼ぶ苦」がその場で滅する。

されど時の経過より森羅万象が移り変わるはこの世の常。

久々に訪れた楽の次はさらに進化を遂げた楽、つまりは大いなる苦の始まり也。

苦や楽に身や心を奪われ疲れ果てる。すると変化こそまさに苦と感じる始末。

自己保身の心ある限り、楽や苦などの呪縛から逃れられまい。

仮にある人が、すべての苦を楽として考えたとする。

すると、時の経過で起こる変化は一切の容赦なく、少しでも楽な状態であろうとする己を責め立てる。

そこでまた、新たな苦が楽とともに生じる。

つまりは苦の源を断じ、その苦を乗り超えるための新しい苦を待ち望む。

ここで、「苦もまた楽し」とする胆ができる。やがては楽と苦という二元的価値観を超越する至福の心境が訪れる。

それにはまず、人生を真面目に生きて多くの経験を積む必要がある。

では、楽をすべからく苦と考えることは容易であるか?

いや、できにくい。できまい。

自然な振る舞いが容易でなく、また不自然が自然になろう。

ゆえに苦を楽とする思考を心地よしとする。

人間は、一日に10億の細胞が入れ替わる。

ゆえに昨日の自分と今日の自分は、似て非なる存在也。

また、脳は自己防衛のため本能の命じるまま記憶を忘却する。

創造主は人を作る際、実によく考えていたものだ。

繰り返すが、人は時と共に移り変わる宿命にある。

ゆえに楽を断じて苦に向う平素の心構えこそ大事といえよう。

苦行に励む我友に、私の座右の銘を贈る。

常に独り行き 常に独リ歩く

達者同じく遊ぶ 涅槃の路

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