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仕事と人生

子供は大人になれば憧れの職業に就きたいと考える。

では、大人になるとどうであろうか?

厳しい就職活動を乗り越え、また長年同じ職場に従事しながらも仕事に満足感を得ず生きがいも感じない人がいる。

それでは職業に就くのでなく、仕事と名の付く時間に従事しているに過ぎない。

通う場所は職場ではなく強制作業場。

労働時間内を拘置所に収容されたのと同然だ。

職業意識、つまりプロ意識がないから仕事に欲が生じない。

緊張感なく、無意識に就業時間が終わることを待つ。

職場定年も然り。

庭で放される飼い犬は、鎖につながれると安心を覚え眠りに落ちるという。

拘束されることで得る制御された自由。

与えられたもので、自ら掴み得たものではない。

人間社会も似て非なるところがある。

得るものがあれば、同時に失うものもある。

しかし、その代償は余りにも大きい。

さて、職務遂行のためあえて意識を低下する必要があると聞く。

安っぽい組織に魂を捧げる訳にはいかぬとばかり、

タイムカードに縛られ、しばし奴僕に甘んじる。

そこまでに至まで紆余曲折があっただろう。

いや、影響力を持つ親や知人の存在かもしれない。

だからといって仕事をする以外の自分だけを過度に肯定できまい。

対比するほどに追い込まれるのは、他でもなく自分だから。

仕事はあくまでも生きる手段で目的に非ずと考える。

しかし、『仕事をする時間も生きる時間』との別の命題に突き当たる。

すると、この矛盾を解くべく回答が見出せない。

では生きることが目的で仕事が手段であるか?

この疑問を投げかけると、人は無力感にさいなまされる。

やるべき仕事を自らが見つけ、自分なりに黙々と努力を重ねる。

他人に迷惑さえかけなければ、いかなる仕事でも良いではないか。

他人の評価に耳を貸さず、自己実現のためのみ努力する。

人生を賭した職および仕事に関わることは、決して難しいことではない。

出来る事を愚直に行じる。結果が出なくとも焦らない。

理解できない自分を責めない。

そして、一刻一刻を自らの意思で制御する。

やはり仕事と人生は切り離せない。

瞬きする間を懸命に過ごしてこそ、生きる姿といえよう。

己の仕事をそれぞれが精一杯努めることで社会も良くなる。

社会に求める生き方を戒め、自ら就いた仕事に誇りを持つ。

日々の仕事を真面目に積み上げれば、必ずその職は天職となる。

たとえ誰が認めなくとも、自信は揺ぎ無きものとなろう。

時間どろぼう

ネットの普及により、この10年間でビジネススタイルが大きく変化した。

従来の広告媒体と比較にならないほど安いコストで効率的PRができる。また、情報を探す側はいつでも欲しい情報を世界中から得られる。

この世はネット文化真っ盛り。

しっかりと恩恵を享受したいところではあるが、近頃は弊害の方がむしろ目立ち始める。

それは、社会の健全な発展と人間同士の相互信頼を基軸に置く我が国の商道徳感をも揺るがしかねない、マナーの悪化である。

情報を選択する権利の全ては受け手側が握るとする傲慢な考え方が広く根ざし始めたところに問題ありと指摘したい。

ここ数年増加しているケースである。

サイトに掲載してあるのだから更に詳しく聴けることが当然の権利であるかの如く、質問を繰り返してくる例だ。

こちらは公共性の高いサイト運営をしているわけでない。あくまでも乾燥剤を紹介する商業ベースのサイトであるにも拘らずである。

包み隠さず言わない理由を教えろとまくし立てる御仁もある!

こちらが知らない事だって大いにある。また、企業がネットに書けない隠し事をしてはいけないとでも?

それでも折角のご縁と考え直して説明を続けていくうちに時間は刻々と経過、丁度その頃になると先方はすでに上得意様気取りである。

ようやく質問が途絶え、納得した様子が伺える。

すると・・・

「だいたい分かりました。どうも有難う!」 電話を切ろうとする。

「ところで弊社商材にご興味頂けたのでしょうか?」

「いや、社内で明日、プレゼンがあるので資料作りのため電話しました。」 とか、

「ネットの解説以上に薬品の詳しい勉強をしたかったもので・・・」

平気でお答えになる。

こうした傾向は有名企業の若手および官庁(警察もある)に多い。

では彼等は企業名と肩書きさえ名乗れば、ある程度の協力は無償で得られると考えているのか?

いや、これらはネット社会の弊害でないかと考えてみた。

要するに受け手としてみれば、ネット上より得た情報はすべてバーチャルの延長上と考える。すると実在する企業および担当者すら、ネットから生まれた虚像としても良いわけだ。

情報だけは得たが、ネットを利用して得たものだから御礼など語る必要もない。更に加えると「相手は商売でネットを利用している。だから情報を得てコンタクトをとったまでだ。ネットを見るのは無料。情報とはそもそも、ただ同然で手に入れられるものだ。ネット情報の延長を質問すれば教えてくれるのは当たり前。」

つまり、こうした用件が終わればデリートキーによりプロセスを記憶から消去できるのである。

最初から面会する気持ちなどない。

ネット上の契機はそうした面倒な作業を省略できる。

ゆえに用件を済ませるだけの御仁には、都合が良いことづくしである。

だが、こう考えてみると腹は立たぬが空しさも募る。

このような乾いたビジネスでよいか不安な気持ちに襲われる。

「そうだ!双方が互いに感謝し、喜び合うことにビジネスの感動がある。また、真剣なぶつかり合いは人間成長の糧となる。」

このままの状況が続くと、日本語が通じることさえ呪わしく思う日が訪れる予感がする。

「ネットを見たのですが・・・」有り難いことに連日、電話を頂く。

現在のところは、マナーを心得た立派な方からのご縁が圧倒的に多い。

ネット文化の恩恵に授かっていると度々感じている。

では、先のような時間泥棒を相手にした場合であるが・・・

暫くは膨大な時間短縮を実現したネットによる恩恵の代償と考えるとするか!

仕組まれた選挙

参議院選挙を終え、この先のねじれ国会によりますます国政が読みづらくなる様相だ。

総括すれば民主党政権のこれまで8ヶ月を及第点とするか否かであったようだが、これは管首相が突然に消費税引き上げを口走る事で余計に話しを煽ったと指摘する声が多い。

私も消費税が今回の争点であるかのように考えていたが(考えさせられていたか?)、蓋をあけると消費税引き上げを主張する別の党、自民党が大いに躍進していたのだ。勿論、反対票を一斉に集めた党もある。しかし、最終的に国民は二大政党の片方の指示に動いた。そして今回の既成事実により消費税引き上げは晴れて国民の了解事項となった。それだけが、選挙で判明した日本の近い将来の筋書きだ。

残念なことは今回の選挙も、イデオロギーの対立ではなく与党対野党の票取りゲームに終始したことだ。

一体どうしてか?

やはりメディアが扇動し、世論を動かしたことになるであろう。

しかし、選挙を程度の低いものとした功罪は大きい!

その間でも普天間基地問題の話題すら報じることはない。今でもあの世界一危険なヘリコプター基地では休むことなく軍用機の離発着がつづいているというのに・・・(余談であるが、与党が沖縄に候補者を立てなかったのは国政選挙の事情もあろうがあまりに狡猾と思う)

また、この国は2000年からの経済成長率はOECD中だんとつ最下位。歳出の3割を国債などの借金に頼り、その8割を返済にあてる。長期に経済規模が拡大せず、その間に借金が膨れ上がり、加えて雇用の減少とデフレも招いた。

これらすべてが問題なのである!

マスコミを牛耳るシナリオ作家により世論が決まるとは、話題の阿久根市長の語りであるがまったく同感だ。このままではシナリオ作家が気に入る議題だけを、彼等がお気に入りの大根役者が演じる国会劇場となってしまう。

「日本を一度洗濯いたし申候」

候補者の名前と政党の連呼が終わると鳴りを潜める議員殿、ここは竜馬の志を見習い活躍が目立って仕方ないほど奮闘して欲しい。我名誉や政党でなく日本の将来のために!

「生きる事に精一杯!」 

「生きることに精一杯」という言葉が巷に飛び交う。

人それぞれ現在と、自分だけが知る過去がある。

このフレーズを聴く事より、他人の外見とは異なる生活ぶりを知ることも少なくない。

最近頻繁に耳にする場面は、メディアが社会的に不遇と一方的に評価を定めた?人々へ問いかけの際であろう。

さて、この言葉であるが前向きに解釈すれば「生きていられるのだから心配は要らないよ」とのことだ。

しかし、立場が違うと感じた聴き手は哀れみの心でとらえる。

その場合、聴き手は語り手の輝かしい未来を考えず、その現状に対し感情を投入する。やがて言葉となった感情が心に拡がる。

(映画鑑賞中、ここは泣きの場面と言わんばかりのシーンの際、悲しみを誘うBGMが流れると素直に反応するようなものである)

こういった経験を繰り返すと、使用者にとってこれほど便宜よく使われやすいフレーズも少ないことに気付く。

(窮状を吐露する真の語り口として使用されることも認める。)

では、社会生活を営む人間はすべてに「生きる事に精一杯」以上の欲望を充たす必要があるのか?

本来、動物であるのだから生きる事を各々が努力することは当たり前であろう。

大人は、自分で工夫し自分で生きる道を切り開くしかあるまい。

こうした心構えが身についていない大人がいれば気になる。

「生きる事に精一杯」とつぶやく時、これまでの共同社会に対する感謝の気持ちも受け続けた他人からの恩義の一切も棚上げすることになるからだ。

問題の本質は、共同社会に対する依存および甘えの体質にある。

こうした考え方は他人との執拗な比較において、反社会的な気持ちになりやすい。

また、権力者からの甘言に盲目的に反応し、そのたび社会への失望を招くこととなる。

生きている上に他人と比較した自分の位置を確認しようとするからややこしい。

さて、このフレーズを聴く時、使う時の心構えを挙げる。

まず、聴く時の心構えとしては、できるだけ感情を移入せず使用者の意図をよく諮る必要がある。

次に使用する際の心構えとしては、出来るだけ過去形で使うべきである。

「生きることに精一杯だった」

これほど過去形が映えるフレーズはあるまい。このフレーズを清清しく語れる日が待ち遠しい。

葬儀の後味

葬儀を終え生前の面影を偲びながら故人の思い出話をする時必ず、「あの人の生き方は幸せであったであろう」とか「いや、遣り残した事があるから心残りもあるのではないか」といった話題がでる。

これほど故人にとって迷惑な話はあるまい。

他人に我人生を総括して欲しくないし、また分からないことをあれこれ類推され自分たちの価値基準に照らし合わされるなどもっての他、傲慢な遣り口といえるのではないか。

死人に口無しとはいえ、その場で甦り相手の口を自らの手で押さえたい衝動に駆られるのではないだろうか。

たとえどれ程の処世の達人でも人生は未完で終わる。

夢や志があればなお更のことであろう。

これまで歩んできた人生の道のりは、振り返れば夢の残骸が小山が出来るほどうず高く積み重なっているではないか。

人の死を悼むことは、そうした人生を含め故人の生を愛しむ事でもある!

たとえ仕事上でのつながりであれど、そのご縁に心から手を合わせる必要があろう。

上辺だけの事象に捉われた判断は多くを見誤る。財産や地位に捉われ生きてきたとの評価については、語り合う周囲にも空しさが募るばかりだ。

人間、裸で生まれて裸で還っていく。土くれとなるのだ。

結果や肩書きではなくは故人の人生を讃えてみようではないか。

また、最後の別れ際に許されるのであれば、死顔だけは見ておこう。

ここにロシアのことわざを引用する。

生まれる時は自分が泣いて周りが笑う。死ぬ時は周りが泣くから自分は笑って死にたい。

幸せは自分で決めることだと、葬儀に呼ばれる度に考える。

たとえ今死が訪れても構わない堂々とした生き方を心掛けたいものだ。

遅配

先日来,紙面をにぎ合わせている郵パック遅配問題である。

仕事上において、この件との関わりあるまいと高をくくっていた。そのため合併問題など詳しいニュースのいきさつも日々の情報として受け流していた。

しかし数十万個の遅配荷物の中に、親戚からの心づくしの贈り物があることが判明したのは、問題発生日から6日経過した朝であった。

郵パック遅配問題をテレビで見ていた家族の話である。

「そういえばかなり腐っていたけど・・」

荷物が到着したのは7月2日金曜日、品物は山形県産さくらんぼである。到着して4日間は旬の高級食材を視覚、臭覚、味覚を総動員させて一粒一粒を味わいながら食していた。しばらくは甘さに酸味が混じり独特の香りを漂よわせる紅色が、食卓を彩る。

テレビを見た後の家族の話しである。

「品物を受け取ったあと直ぐ箱を開封し、冷蔵庫に入れるため小分けで箱詰めされているパックを取り出した。すると底に果汁が溜まった状態のものがあり、すべてを確認すると約1/5がいたんで食べられない状態にあった。食べられることができる物だけ選別して別の容器に入れ替え保存、傷んださくらんぼはその場で廃棄した」と語る。

早速さくらんぼの入った箱を調べる、送り状は既にちぎれ、文字を読み取ることは出来なかった。

「しかし、このまま泣き寝入りをすることは避けたい。よし、電話してみるか。」

食い物の恨みは深いものと改めて認識する。他に欲求が少ないため、余計に欲望が肥大化してきたように感じる。

贈答して頂いた親戚の気持ちを踏みにじる訳にいくまい。また、これほどまでに大きくニュースとして報道されれば、むしろ先方が心配されているのではないか?そこで生半可な返事をしてはご厚意に対して失礼極まりない。ここは慇懃なる礼状と共に、真実を語ろうではないか。

そのようにストーリーを組み立て、郵便局に電話を回す。かれこれ20分間、地元郵便局と送付先郵便局との無機質なやり取りの後、遅配荷物という認定となり保障しますとのことであった。

この間に局とのやりとりで3人と話したが、対応と個々の受け留め方にいくつかの疑問が生じた。勿論、電話口で対応している人を叱り付けるクレーマーを演じた訳でない。また、ドライバーおよびは配達従事者および局の配送業務は、新体制を迎えることで必要以上に神経を尖らせていたはずである。そこに結果があるから、ただ検証を願う気持ちであった。

このようなやりとりがあったことを記録する。

地元郵便局

「その果物はどれ位食べましたか?・・・あ、これはマニュアルですから気にしないで下さい」

果物送り先郵便局

「どちらかでしょうか?そうですね、エーと、遅配です。遅配ということにします」

「お宅様のは3日で到着している。ぶっちゃけいい方ですよ!ただ、物が物だけに・・・そういうことなんでしょ」

「ところで処理のご希望は?」

本当に責任を取る人は多くを語らない。責任を感じない人は自らの言質も重要ではない、だから使い捨ての感覚であろう。20分の間、一度も謝罪の言葉なく遅配処理が終了した。

責任をとらない、とろうとしない面々の恥の感覚が著しく欠如してきている。顧客不在の組織の在り方こそ、今回の問題ではないかと考える。

党首会談

本日朝の党首会談は目新しさにかける内容に終始した。選挙を控え大胆な論議を避けたかったのか、あるいは聞き手が党首ばかりのため進行役が遠慮したのか、内容は寂しい限りであった。

中でも話題は消費税引き上げ問題である。

野党第一党、自民党の出した案にただ乗りした民主党党首の話である。

「2020年までにプライマリーバランスを黒字化する。これらはG8、G20でも一定の評価を受けた財政建て直し策と経済成長路線の二本立て、いわゆる上げ潮政策である。財政再建においては各国とのバランスを重視し調整していきたい。また、消費税は社会保証を手厚くする財源として充当したい。」

耳障りのよいお題目を並べたが、結局は財政重視でも金融政策重視でもあるかのようなあいまいな発言である。将来を予見することなく、現行路線の変更すら見出せない話に終始した。

このうち消費税引き上げは民主党政権発足時のマニフェストと異なる。

政権を取得したことで官僚との結びつきが深くなったか・・・所得税や法人税などの直接税と異なり、比較的公平感がある間接税の魅力に菅さんはどうやら捉われてしまったらしい。これは役人の入れ知恵に間違えあるまい。

消費税アップは元々、傷ついた年金基金を立て直すというムード作りに出る。年金のためなら国民はどんな血税でも納得してくれるであろうとの考え方が前提である。しかし、年金基金が破綻していることは国民は薄々気が付いている。因みに現在の年金基金は約7兆円の赤字という。

要するにこうした穴埋めのため消費税をアップするが認めてくれとのキャンペーンなら話は分かりやすい。だけどこれも制度改革を行なうなどの前提が必要で百歩譲っての話である。

消費税を今後も地方税とせず国税として吸い上げ続ければ官主導の不明瞭なばらまきが待ち受ける。これまでと同じ方法を繰り返してはなるまい。

さて、今回の選挙前の発言によると菅首相は間違えなく消費税引き上げに向う気持ちにあると考える。

また、自民党と民主党が同じ事を発言し他に争点が絞れないのであれば、別の小党が消費税引き上げに反対する理由も耳を貸して、引き上げの是非を問うことを有権者として考えてみたい。加えて各党が主張する他の財源と削減項目も経済政策と合わせ判断材料としたい。

最後に本日の党首会談で、みんなの党党首の渡辺氏の発言は大学教授である高橋洋一氏と似る。おそらく高橋氏が引き続き指南役に抜擢されているものと考える。

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