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格好悪いランナー達!

早朝6時前から約1時間のジョグを日課とし、今年で12年となる。

ジョグ開始当初は早朝に走る人の姿を見かけることは稀で、趣味としてはかなりの少数派に属していたと思う。

すれ違う人といえば、お年寄りと犬が大半を占めていた覚えがある。

しかし、ここ最近において朝の様子は一変する。

ランナーとウオーカーが急増!

とりわけ今年に入ってからの勢いは驚異的である!

時間帯によっては、道幅の狭い湾岸通りは人の渋滞を巻き起こす。

来るべくして訪れたこの国の高齢化が、マラソンとウオーキングブームに油を注いだか・・・

スポーツ用品メーカーの商業戦略がお見事だったか・・・

厳しい財政下、高まる医療費負担増を食い止めようと厚労省がプロパガンダしたメタボ封じキャンペーンが攻を奏したか・・・

マラソンブームの検証はさておくが、いずれにしてもこの10年で隔世の感がある。

ここで一言、苦言を呈す。

最近の新顔はマナーが悪い!(生意気な表現ではあるが、適切な言葉が見当たらない)

すれ違ってもまず挨拶をしてこない!

他人との関わり一切を拒絶したいのか、人の気配すら感じない素振りをする。

では新顔にとって、すれ違うランナーとはそれほどまでわずらわしいものだろうか?

仮に新顔(年齢とは無関係)に反論があるとすれば、どうしてウエアにこだわる?

無関心であれば、野良着で気ままに走ればよいではないか??

走るフォームを見れば、新顔であるか否かなど一目でわかる!

清清しいはずの朝の光景にすべてが似つかわしく感じる。

これら新顔の多くは、相手と視線を合わせないよう、気配を感じとりながら視線を他に移す、またうつむく。

あたかも自然を装っている積もりであろうが・・・

とんでもない!

すれ違う時に、観察してみるとよく分かる。

彼らの意識下には、すれ違う他人がいることがしっかりと伺える。

また、それほど走りや歩きに集中しているとは思い難い。

また、口をあける余裕がない程辛い状態には見えない。

『この人は挨拶してくれる人かな?』などど、心待ちにする人も中にはいる。

また、『挨拶しなければいけないかな?』と少々気にする輩もいる。

しかし、大半は他人に無関心であることを装う。

動く人間も障害物に等しいのであろう。

ぶつかると怪我をする。だから避ける・・・

記憶の残影からかっての光景を懐かみつつ、現代を生きる寂寥感に心痛める。

自分の知己だけを特別な存在に思う現代。

見知らぬ人はすべて通りすがりと言わぬばかりに、関わりを持つ意味すらないと始めから決めて掛かる。

集団からの逃避を暗黙のうちに権利化させた悪しき携帯なるツールが、パーソナル化に拍車をかけているのであろう。

では尋ねる。

はじめて人間同士が接する時、一体何から始めたか?

『挨拶』にきまっている!

だから、挨拶の一つもできない新顔ジョガーやウオーカーは実に格好悪い!

勿論、思考に集中したい時もあろう。

また、ジョグの世界に没頭してしまう事もある!(私もつい忘れてしまうことがある)

それでも他人をわずらわしく感じるとすれば、挨拶しなくてはいけないという責務を履行しない自分に対し、負い目を感じているからである。

たとえ挨拶しなくとも、相手の存在に敬意を表し最低限の理解に務めるべきだ。

口で言わなくとも、笑って頭をコクリと下げる。ただそれだけで良い。

それが道場に足を踏み入れた人の、まずやるべきことだ。

やがては精神の浄化を実感できる!

鍛え抜いた人だけが得ることができる、心の充足感を同じく体現できる。

だから、新顔に大切なのは服装を整えることでなく礼儀を正すことと思う。

P4020879  

全長1Kmの大橋。傾斜6% ラップは4分30秒の設定 

P4020884

廿日市港 右手に酒造メーカー 麹の臭いが心地よい日と、なぜか吐き気を催す日がある?向って右の一番手前の知人(朝の挨拶で知り合ったお年寄り)の船で、シーズンになると太刀魚釣りに出かける。

P4020897

インターバル区間 500メートルダッシュ 設定2分以内 スタートから4キロ地点

ここでは挨拶できない(笑)

一人旅

我が身を空に預ける。

そこで、『この我とは一体何か』と考える。

我を我となすものが、何処か必ずあるはずだ。

それは身体ではありえない。

ならば、我とは『概念』といえよう。

それを説明せよと、言葉にすることはできない。

もともと言葉などは、我欲を充たすための小道具。

欲望の欠落から生じたもので、その多くは装飾品の類にすぎぬ。

だから、言葉でたどりつくプロセスにより、多くは的(真理)から外れる。

もともと『概念』は言葉から想起したものではない。

また、自己以外の理解を求めるものでもない。

ここで『概念』を『魂の雄叫び』とでも言い換えようか・・・

気着かず一生を終える人もあろう。

言葉として探すことに捉われ、言語の世界を一生放浪する愚挙もあろう。

いずれも空しい。

されど、識ることでその見返りを求めてもいけない。

もともと『概念』は、処世とは縁遠いものとだけ覚えておこう。

さあ、旅にでかけよう。

地上でたった一人の絶対無比なる存在を探す旅に。

世俗と全く異なる価値観で、個の個たる理由を探す旅に出よう。

そのために一人になる。

すすんで一人になる旅に出かける。

そっと身体を空に預けて、内なる声を尋ねたい。

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