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死生を観ずる 

生前に功徳を積んだ人、また諸悪を尽くした人、富裕にある人、また貧にあえいだ人も、すべての人に等しく死は訪れる。

しかし、肉体の変化でいえば生の状態から死の状態に移行したにすぎぬ。

生命体すべてに共通して言えることは『命あるものは必ず滅する』という命題である。

肉体的にいえばいかなる事由も抗えず、受容する外ない。

しかし意識として死を受容するとき、死後の世界に関心が向く。

この世界であるが、信仰や迷信を含め情報で溢れんばかりだ。

また、過去に刷り込まれた情報を受け入れたままの状態でいる人が目立つ。

その多くは肉体の移行に限らず、個の感情が存続しつつ死後の世界に移り住むイメージに捉われている。

そこで死後を生前以上に意味ある場所としたいとか、ハッピーに過ごしたいなどの欲が生じる。

そのため生きているうちに死後の世界へ正しく導く手引きとしての方法論、あるいは生前懺悔のプログラムが必須となる。

結果、人は神仏を対象とし信仰する。仏法だけでも8万4千もの法門があるという。

さて、死後の世界を身近に感じる契機であるが、絶望の淵に追い込まれた時、肉体が病変もしくは著しく衰退した時、あるいは親近者が亡くなった場面であろうか。

そこで、死ぬことで現実とは全く異なるステージが用意されていることを切望する。

この死への憧憬であるが、動機の根底には観念的に死を恐れることが起因する。

その畏怖に対して、心を解放することより精神の安定をはかる。

つまり、追い詰められた状況や試練が死への恐怖心を払拭し、死後の世界に願いをつなげる。

死は必然とはいえ、時として便宜なものである。

では、生死を超越した生き方があるか?

死を状態の変化と考えられるよう、今まさに生きている状態に没我する。

さもないと、実際に生きる姿(リアリティー)が死後の世界を奉ることで意義を得ることになりかねない。主客転倒といわざるをえない。

死後の世界を美化し、現実に在る世界以上の価値を与えようとする作為に危険がはらむ。

在りのままの生を観じるため、死について考えることも必要であろう。

しかし、死後の世界などはすべて想像の世界である。おまけに前世などもありえない。

瞬きするこの時間だけが実在している自分であり、自分の住む世界。

たとえ死後の世界が実在したとしても驚くに値しない。

自分が今、在ることを確認するのはまさに自分の他なし。

他人は、自分でないことを示す存在にすぎない。

仮に死後の世界だとしても、その場所にあればそこで生き抜く。

死んだあと、また死ぬかもしれないが、それでも本来の自分を見つめる。

もし、その必要がなくなると感じれば、その時始めて死んだとすればよいではないか。

人の一生は死ぬ事により完結する。

この考え方は、心の状態如何では両刃の剣となる。

当たり前であるが、死とは生きていない状態で突然訪れるものだ。

死んだことさえ忘れるほど、夢中に生き抜く他はなし。

                     

商道は1日にしてならず!

得意先の社長より学んだ一切を、感謝の念を込めここに綴る。

その得意先の業務内容であるが、我が国の人口構成の変化に加え、昨今の消費不況が追い討ちを掛けることで構造不況業種として国から不名誉な認定があるほど厳しい状況下にある。

その背景にあるにもかかわらず、彼は一昨年に続き再び新店舗をオープンした。

エネルギッシュな社長は実際に数多くいる。また、これまでも多くの社長連中と関わってきた。

エネルギーを内なる心に向けるため、全く情熱を外部に現わさない社長も中には見受ける。

しかし、大概に言えることである。

起業したオーナー社長であれば、仕事に尋常さを超える程の情熱がなければ務まらない。

仮に起業はできたとしても経営者になれまい。

先の社長は過去に面識を得た人の中でも、実にエネルギッシュである。

また、断じて色眼鏡で見ていないことと確認しつつ客観視しても、発するパワーが他と異なる。

ビジネスに対し真摯に取り組む大先輩より、教わった金言である。

『仕事は時に愉しくもあり、また苦しい。当然、予期できないことがおこる

それを時代の変化の責任にするのであれば、自らの努力不足をまずは疑い戒めるべし。

グローバル化や高度な情報化社会、特にネット文化が会社を衰退させたと嘆く企業もある。

言い訳は不振企業の数ほどあろう。

しかし、いかなる理由においても、誠の人間関係に介入できる余地はあるまい。

人と人をつなぐのが商い。それで商人はこの世を渡る。

人間と人間の深いつながりこそ、商いは感動を生む。

購入者と商人、お互いに取引きを通じて信頼と感謝が生まれる。

それが連鎖するからこそ、商いは栄える。

商品などは、いつの世も探せば必ずどこかにある。

また、買うことなど腐心すればどこからでも一時的には安く買えるのは世の慣わし。

ならば、買いたい人はそこで買えば良いではないか。。。

しかし、それらは心より満足して商品を購入したと、果たして言えるであろうか?

一時の出費は抑えられたとしても、年数が経過すると必ず購入した、その日の感動を忘れる。

商品の末路といえば、ごく当たり前の話であるが故障と廃棄が待ち受ける。

顧客と店側の心のつながりこそ、購入時に大きな感動を呼ぶ。物が物でなくなる瞬間だ。

感動すれば益々商品に愛着がわく、また、他人にも自分の得た感動を思わず紹介したくもなる。

それらを構築することで、この時代に拘わらず業務拡大できていると考えている』

とのことであった。

お金で買えないものがあるとすれば、やはり信用であろう。

それは、いかに互いが真剣に対峙するかに拠る。

マーケットは真剣の場とその社長は語る。

そのマーケットを軽視しない。

いつでも真剣にとらえる。

そのために、『商いを通じて社会貢献をしている』との意識を絶えず持つべきであるとも教える。

簡単に見えることこそ、実行することは難しい。

ネット販売により、ユーザーは商売人以上に商売気が旺盛になったように感じる。

しかし、気に入ったものをより安く買いたいのは、不況時であろうがなかろうが同じである。

その欲求だけを充たすのであれば、ネットの果たした役割は大きい。

しかし、罪も数多くあろう。

何故なら果たして自分は一番安く買えたのであろうかと、購入後もいちいち心配しなければなるまい。

要するにこの購入ゲームに興ずるとすれば、最も安く買った証明書でも得る事とがなければ、いかなる購入をも満足できないと思う。

『商売人から物を買ってやる。不況だから安くして当然!』との考え方が最近、消費者側の心に蔓延してきていることを危惧する。

感動のない、会話のないやり取りが増えれば人間関係はさらに殺伐となる。

人間くさい場所に行き、顔見知りの人間から必要なものを買う。時には必要でないものも混じる。だけど、次第に必要に思えるから不思議なものだ。

そこの店にはいつも溢れる笑顔がある。

また、店員の顧客を思う真剣さがある。

店とお客さんとの真剣勝負は展示品のクオリティーをさらに向上させる。

そしてまた、新しいお客が訪れる・・・

先日訪問した新店舗の飛躍に疑いなきものと感じた。

また、購買一つにしても人間の品格が現れるものと、つい考えさせられた。

良い店が良い客を作る。良い店が良い客を作る。

諸問題を抱える日本の政治についても、同じ考え方が出来よう。

さて、新しくマラソンブログを書き始めました。アドレスは腹さんにリンクを貼るようお願いします。

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