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携帯は殺傷力を持つ!子供の安全を考える。

15歳になると子供に護身用ナイフを持たすアラブ人の親。子を立派な成人とみなす儀式でもある。

封建時代には他の階級と異なる厳しい戒律により、その時代の精神性をリードした武士階級。

他人をあやめる権利と引き換えに、職務や名誉の為なら命に固執することなく、何時でも自らの命を断つために許された帯刀。

いずれも子を持つ親は、祖先の教えを敬いつつもごく自然に教育する。

「武器を持つ人をかなづちに例えると、彼等にとって問題はすべて釘に見える。」とはアラブの諺。

武力を持つと必ず使用したくなる!とは武の力学。

ただし、自分が所有するものが武器と気がつかなければ少し厄介な話となる。

近年、頻繁に新聞紙面をにぎわす携帯やネットによる子供同士のいじめによる被害である。

そもそもネット文化とは、見知らぬ相手と最初から内面同士の付き合いが出来る過去に見当たらぬツール。また、ローコストかつイントラクティブに情報をやり取りできる優れた文明の利器であることに異論はないであろう。

しかし、何分経験不足の子供に対してこの利器を与える場合、未熟な精神構造ゆえに誤った作用を加えることが多々あることを知る。

個から始まるいじめを多数の声により増幅させる点や、現実以上にバーチャルを信用したがる傾向性により、現社会は数々の悲劇を抱え込むことになる。

特に学校の裏サイト、2チャンネルなどは悪質性が高いところで評判のようだ。

(一体どうやって見るもか分からない自分も、ここは反省が必要か!?)

携帯やネットという便利なコミュニケーションツールが、言葉という凶器を借りて人間を罵倒する。

大多数のネガティブな現状肯定派を、ごく少数の好戦的人間の歪んだ感情操作により戦場に巻き込み、弱者を容赦することなく徹底的に痛めつける!

正々堂々と語れないことはネットで語る。他人を中傷する行為などは、むしろ堂々と語れる場所を与えられたかのごとく見受けられる。

文字に変換すると、悪辣な批判はますます憎悪の念を増長させ殺傷力すら持つ。

「他人を批判することで自らの存在を確立する。」とはよくある手法。

大人でも日常的にあることなら、子供の世界は押して知るべし。

「ネットを通じて他人を中傷することでようやく価値観を共有(?)できるグループができた。これからは仲間同志。同じ穴のムジナである。我々を批判する奴は許さないぞ~。いや間違ってもそのグループから敵視されることだけは御免こうむりたい!」

普通の子であれば考えることが当たり前。

このポジションを確保できたことへの安堵感からか、弱者を見つけては次から次に集団の力で苛め抜く。そんな陰湿な喧嘩が増えているときく。

我々の時代、つまり昔(?)はといえば

集団による暴行を受けても殴られる者に肝が座ってれば、その負けっぷりより、翌日からは散々殴られたにも拘らず殴った方から一目置かれ親しまれたとか・・・

また、勝者はすでに決着のついた勝負(けんか)を長引かせることはしなかった。また、あくまでもけんかに耐えうる精神力を持つ相手を選び、喧嘩の対象としていた。また、殴る側(苛める方)はあくまでも、一線を越えない喧嘩をルールとしていた。

そんなことを語るのは、過去にやんちゃ時代があったとする知人。

その彼はこう続ける・・・

今は違う!完膚なきまでに相手を叩きのめす。相手が強い、弱いなど意にも介さず。その結果として重大な危害を相手に与えるなどは始めから考慮しない!程度をわきまえることを知らない物同志が闘うから、こちらも仲裁したくとも手が出せない。

こう語る彼は合気道、柔道の有段者で、2つの段を足すと軽く二桁を超える実力者。

親と子のそれぞれの時代の喧嘩作法により、(無理矢理にも)今昔の感覚のズレを検証してみた。

さて、大人が利便性を感じてやまないこのネット文化ではあるが、未成熟な子供達に安易に手渡すことになると殊更にタガが必要ではないだろうか?

経験の少なさゆえ、見境いなく発する負の言葉の連鎖が、同世代の子供を絶望の淵に陥れる。過去に起きた悲劇的な事件が我々に警鐘を与える。

今後、殺傷性を帯びた武器ともなりうるケイタイおよびネットの利用につき、大人の議論を重ねていく必要性を感じる。勿論、立法化を含めて・・・

冒頭の話に戻るが、武器を渡すのは周囲が成人と見なしてからとするべきだ。

皆が所有するからでは、余りにも親の責任がない。

我が子だけは大人であって欲しいとする責任のない願望や、子供の所有欲のみを充たすためだけにこれらを与えることは慎むべきだ。

また、いじめとは犯罪。苛める側に大義や理屈など一切ありえない。あますことなくすべてが悪い。これらをさらに親が徹底的に教えるべきでもある。

引きも切らない凶悪犯罪が続く中、一向に減る気配もない校内いじめによる自殺の記事を悲しい気持ちで読み、子を持つ親として考えたことを綴る。

店長が名ばかりの管理職?

大手外食チェーンの元店長が、訴訟まで起こし遡っての残業代を請求。裁判により残業代の支払いを命じられた会社は、今後、店長職の名称の見直し、仕事内容、および給与体系の変更、労働環境をモニタリングする目的での管理機構の設立などを公表した。

これらの方針の発表を受けたメディアの多くのコメントは、企業はイメージを損なわず世論の批判をかわせる範囲に収めるだけを目的とし、本題である給与および待遇面の改善については解決に至らず問題を先送りにしたにすぎないと伝えた。

属さない会社への経営批判としては、甚だ余計なお世話のように感じたが、たしかそんな内容であった。

その記事を読み、思わずこの記事を書く人と、それを読む人について考えた。

勿論、書く人は会社を維持、運営する立場の人ではあるまい。読む人の大半を被使用人と想定。その人達に向けて、同意を得るための工夫を施したメッセージを送る。そんな狡猾さをマスコミに感じた。不祥事で老舗企業が倒産することを、当然の報いであるとだけ評論することにあまりも酷似する。

新聞、テレビの報道はいつでもキャンペーン。世論の支持が記者の最大の関心事。

良い記事とは商売でいえば儲けのネタ。視聴率や購読数を要求されるマスコミは、自分が発掘し、発信するニュースを、世論の関心事と重なるか否かが大事。要するに記事が一般大衆に受けることが重要。Y興行のコメディアンよろしくだ。

だから・・事実を歪曲させることもしばしばある。その証拠にかって続いた捏造報道などがある。(ここのところ鳴りを潜めているのは、現場が綱紀粛正に努めているのでなく、その記事自体に鮮度が薄いからであろう)

しかし、ここは冷静に考えたい。

今回スケープゴートとなった大手外食チェーンの問題を取りざたする気はさらさらない。(食事のお世話になることがしばしばあるから?!)

この企業、人員の管理方法と食品の製造方法について、25.000以上のマニュアルを数えると聞く。

傍からは実に窮屈に思えるが、それに加えて今後は造反?店長の扱い方なるマニュアルが1つや2つ加わる程度であろう。(従順な社員であれば、他に方法がいくらでもあるはず)

むしろこの問題、社会全体が1つの方向性に傾くことが怖い。

例をあげれば格差社会。

この言葉を他人に対して自分の声で発したと時、それと同時に社会的にも道徳的にも、この言葉そのものに責任を持つ。あるいは言葉の持つ印象以外の感覚を、自らの思考で捉えることが大人としてふさわしく考える。しかし実際は、むしろ責任を放棄したつもりになる人が多い気がする。(本当に弱いと自覚する人は、周囲にこの言葉を語らないと思う)

すべては他人事?いや、自分達が理想として何を掲げ、何が出来るかを考えることがコミュニティー。唯一、動物と一線を画すところのはず!

他人の悩み事を、ただ面白可笑しく聞いて、自分に降りかかりそうな不安であれば、首を突っ込み話の中に割って入る。

その結果として、社会全体が本来あるべき自由闊達な意見を妨げる風潮となる。

理想は他人の権利を迫害せず、平和に全ての人と(人種、考え方を含む)共存する社会。違う考え方でも尊重できるリベラルなコミュニティー作りを尊ぶ。

現在の立場が強い、弱い・・・そんなことだけが問題ではない。

現在はどうやら、これらの観点にだけ偏りすぎている気がする。近視眼的だ!

だから仕事は何よりも報酬(お金)が優先する!

この論理が絶対の命題とすると、その価値観はお金から逸脱できぬ。

世に拝金主義だけがはびこる。

つまりは労働の本質や本人のやる気。はたまた人生においての仕事の意義。全てはお金が代償とするとの価値観の呪縛から一切が逃れられなくなる。

(諭吉様申し訳在りません!)

何はともあれ、いかなる残業代をも支払うべきとの論理とはいささか危険である。

(完全否定ではありません、悪しからず)

またこの議題の本質を問わず、降って沸いた話にただ乗りだけを考えるとすれば・・・

規模に関わらず会社には賃金規定、社員規則がある。(会社の登記に必要)

また、すべての会社には創業者の志と企業理念が存在する。

(創業者がいなければその会社は存在しないはず。)

それらの理念を理解した上で、会社の仲間入りを果たしたのではないだろうか??

現在の世論と迎合?する心地の好いムードに安住したいためだけに、会社を窮地に陥れることを考えていないか?

企業は社会の構成員として道徳心が必要なことはいうまでもない。

言い換えると、会社にも健全なモラルを持つ社員(構成員)が必要ということだ。

一部の企業の店長が名ばかりの管理職との報道により、世間の店長の大半が、職業としての店長たるプライドを傷つけられたことを、まずは考えたくなくとも想像してみたい。

私の知人で店長を生きがいとし、またその店長を目標とする人間が多数いることをあえて伝えたい。

この事例は、店長という職業名と、それに従事する人の名誉を著しく汚したことも長く記憶にとどめるべきであろう。

他人を強制的にコントロールすることで、アイデンティティーを保とうとする擬似インテリに追従することなく、自分の価値観で仕事を捉え、いつも仕事に対して感謝の気持ちを忘れない。疑問があればその場で直ぐに解決する。決して周囲を巻き込まない。

今回の店長にはこんなことを考えさせられた。

2007年のサンタクロースに望むこと!

今日はクリスマスイブ。

街中はイルミネーションで飾り立てられ、何が模範かよくわからないが、幻想的(現代的?)風景をかもし出す。久しぶりに開いた市の買出しを終えた様に、人々は大きな包みを提げながら人で混み合う師走の街を行き交う。

今が旬よ!と近年,定番化した音楽が執拗までに耳に入り、マスコミはまるで大災害を報道するかのようにフェステバルに沸く人々の様子だけ騒然と写す。

クリスマス。もともとは教会と信者による宗教的儀式(祭典)

この文化が日本の大衆文化に定着した背景には、欧米の豊かな物質文明に対する憧憬があったことだろう。

今、我が国は欧米並みの物質文明を謳歌できるほどになり、その繁栄を象徴するかのごとく、この祭りは過激さを増している!!

バブル期や景気回復期など、この日を、これ見よがしに贅沢三昧する日本人の姿が度々放映された。経済の発展に伴い、商業的意義の重要性が増した。それに伴い宗教的な意義を問うことすら少なくなった。

この文化に対する日本人の精神的解釈はどうだろう??

(勿論、信者を除くが) 2000年の歴史を抱える欧米の宗教的儀式の完全模倣を目的化しているにすぎないのではないか??

精神的思考の支柱をもたぬ擬似行為は、後世の世にまで誤解をもたらすに違いないであろう!

そもそも、愛する人にだけプレゼント(物資)を送り、また送り返される行為を神が推奨しているとは思えない。

この日ばかりは家族を省みようなど語る、本日づけのA新聞の表紙を飾る看板エッセイなどは、とてもいただけない。

この一日の意義を訪れた今日、無理矢理、しかも場当たり的に解釈しようとしても土台は無理な話!

せめて懸命に考えようとするなら、この日はキリストと同じく、人類の幸福を考えるべし。

史上最悪の人道危機、残酷な殺戮が今なお続くスーダン、ダルフール問題は今こうしている間にも罪のない子供や女性が銃弾により倒れている。

内紛が多発するイラクの国民の生活、洪水により多くの人が犠牲になり、なおも治まる気配すらない世界で一番貧しい国、バングラディシュの人々。

皆、同じ時代に同じ空気を吸って生きている!

唯一平等であるはず?の空気の質について責任すら持たないと言っているのは、あの超巨大国!今日一日、とても幸せに暮らしている様子だ。(少なくとも前述の国々よりは・・・)

我が家では今日、そんな話をしてクリスマスの日を迎えよう!

親父なんてきっとサンタさん来ないよ~ って言われるだけだが・・・

このままこの外来文化の上辺だけを、我が子に教えるわけはいかない。

宗教的には異なるが、この日をクリスマスとして迎えるためにキリストの善行を心に刻み、人類の共存と平和を希求する日としよう!

そして子供に教えつつ自分を戒める。

キリスト同様、他人の苦しみを我がことのように考え、多くの人に愛を惜しみなく与える人になれますように!

そして、多くの人々が自分の家族を大切にし、贈り物をする気持ちを人類に向ける。人類皆サンタと化す。世の中は善意の贈り物で溢れる。しかしクリスマスを飾るだけの仰々しい包装紙は必要在りませんヨ!

すべて今年のお歳暮のように簡易包装で構わないからね!!

本日ブログを書き終えた後、何気なくテレビをつけると、日本人がフィンランドのサンタと称する人に会う設定で、その実況中継を放映していた。そこで敬虔な信者のコメントを聞き、今回のブログ内容の中で、クリスマスに対する認識に不足があったことに気づいた。それは、「信者はイブ、もしくはイエス生誕日である25日には、家族以外の人と連絡すら自重し、ひたすら家族といる時間を大切にする」との内容であった。著者の認識不足をお詫びすると同時に、この日の宗教的な重みについて改めて認識することになったことをここに追記する。

拝啓、太刀魚様

拝啓、太刀魚様

いつもお世話になります。

今年は暖冬のせいか、例年姿をお隠しになる

この時期(12月)まで、いつもの浜で見かけること

ができ、大変光栄です。

とはいえ、人間の心を計ることに巧みな貴殿の

おかげで、傷心と慢心の連続。それゆえ

不覚にも心落ち着かない日々をすごしてます。

渚の秋の風物詩 太刀魚様、小魚を追い求め

水面に浮上する銀色の勇姿見たさに、

浜に通いつめて今年で15年になります。

 この時期すっかり馴染みとなった、貴殿との

夜の密会にもかかわらず、いきなり差し出した

ご馳走(キビナゴ)の頭だけ食べ残すなんて

失礼ですよ!

また、すっかりお食事が終わったものと勘違いして

竿先をあわせると、スッと口から離し悠然と沖の

住まいに戻られる。

また、子供があめをなめる時のように、食事を

口にくわえてみたり離したりの繰り返し。

一言、行儀が悪すぎます!家庭環境や教育に

問題があるのではと勝手に勘ぐってしまいますよ。

(また、明らかに面会にはやる私の気持ち

を愚弄する冷酷なやり口ですよ!)

こんなやり取りの後、浜に一人残された私の気持ち

一度でもお考えになったことがありますか??

これらが脳裏に焼きつき、熱い情熱とわずか

ばかりの自信を幾度失いかけたことでしょうか。

しかし、聡明な貴殿のこと、人間の嘆きやプライド

にいちいち構ってられない。そんなもの勝手に

その時の人間の都合だけで思い演じてるのさ、

なんてお考えではありませんか??

その証拠に、ちゃんと食事を取っていただけるときは、

他の魚達よりもはるかに従順に対面していただけますよね。

時に私の慢心をとがめ、また自信不足を戒めたり

しながらも、飽きずにお付き合いいただける

変幻自在の親友(そう呼ばせてください!)に

心より敬意を表します。また、ご多幸を祈ります。

                            敬具

追伸

明日の朝4時にそちらに向かいます!新鮮な

小イワシが手にはいりましたから・・・(ワナワナ)