人生の意義

老生不定、無常迅速。

人の人生は分からない。老人も、たとえ幼子といえども死は予測できず突然訪れる。無常なる浮き世の定めの前に人は無力をさらす。時は人を待たない。世の中は時と共に移り変わる。ならばこの世は旅人として来たと思えばよいではないか・・・

先月、友人の出場するトライアスロン大会観戦時の出来事である。

始めて観戦するトライアスロン競技に興味こそあったが、3年前に突然白血病を発病し、その後類稀なる強靭な精神力により病を見事克服した友人の退院後2度目となる復帰戦である。何はともあれその勇姿を拝見したいものと考え、電車と船を乗り継ぎ一人会場に向う。

大会は1.5キロのスイムから始まる。選手は元気よく一斉に浜辺から沖に向かい泳ぐ。早い選手で30分、それでも大半は60分以内でスタート位置に戻る。

友人は上位、しかも元気よく戻ってきた。声援に応えるや否や、颯爽と自転車が待つトランジションまで駆け抜ける後姿に安堵する。

その後8割程度のアスリートが砂浜に戻り、海上では滅法少なくなり始めた泳者がそれでも一生懸命に浜辺を目指して力泳していた時である。思いもよらぬ事態に遭遇してしまう。

「AED、AEDが必要です。選手が泡をふいてます・・・」

浜辺からフェリー桟橋に引き返そうとする自分の真横を、スタッフの女性がけたたましく本部に向い走る。桟橋から本部までの距離は100メートルもない。

海辺に目をやると、たった今までは力泳していたアスリートの一人がフェリー桟橋に仰向けになっており、その横を付き添うように一人の長身選手が立っていた。その周囲には数人の大会関係者が心配そうにアスリートの様子を覗き込んでいた。

周囲が突然あわただしくなる。私が初めて見た時には桟橋に10名程度であったか・・・しばらくすると次から次に関係者が本部席より駆けつけた。

すぐにロープを張ることで一般の立ち入りが禁じられた。周囲に緊張が張り詰めた。ギャラリー達は心配そうにフェリー乗り場入り口より桟橋の状況をじっと見守った。

駆けつけた関係者の一人が上半身のウエットスーツを脱がし、心臓マッサージを始めた。

何度も何度も繰り返す。最初は軽く、次第に力強く・・・

これほど強く押さえてもよいものか、そう思えるほど強く胸を押していた。

10分が経過、それでもまだ続く。救助にあたる関係者も、周囲を見回したり桟橋を歩き回ったりと落ち着かない様子が伝わる。あきらかに焦りが見える。

ギャラリーの一人が言った。

「10分以上続いている。これでも重篤な障害が残るんだ。早く目を覚ましてくれ」

20分、30分が過ぎる。時は止まってはくれない。いつものように流れゆく。

背後ではトップ選手の操る自転車が周回のために通過するとのアナウンスがあった。

多くのギャラリーは応援する家族、あるいは友人のため選手の走行する道路を囲み、お目当ての選手を待つ。

わずか数十分前、多くのギャラリーが熱い歓声を上げていた浜辺と、選手が競い合った海に人影はない。

ただ、眼前には生死をさまようアスリートを囲むように必死で蘇生を試みる関係者約20名の姿が映る。

様子を見守る人こそ僅かではあったが、皆アスリートの無事をひたすら祈る思いでいた。

最初に救助にあたった長身の選手は、その後もじっと心配そうに容態を見守っていた。ゼッケンナンバーをつけスエットスーツ姿のまま、本来の競技とは全く違う救護活動に精神を集中している様子が伝わる。

しばらくして、その選手のとった行動には驚かされた。

彼は救護班がわずかに心臓マッサージの手を止めて連絡のため腰を浮かした瞬間、周囲を制してアスリートの腹上に中腰姿勢となり胸に両手を当てて心臓マッサージを始めたのだ。

彼の施した時間は長くはなかった。それは要領が悪いとかの問題ではなく、おそらく専門救護チームとして数名がまだ待機していたからであろう。1分程度マッサージを施し、周囲と言葉を交わした後は再び立ったまま目を凝らして覗き込む少し前の姿に戻った。

しかし・・・彼はほんの僅かな時間でも必死の想いで蘇生を試みた。またあのタイミングは後から考えてみても尋常ではない。とっさにとる行動とは彼のこれまでの生き様において、ごく自然な行為にすぎないのかもしれない。しかし・・・平素から人の援助を念頭に考える行動を当たり前としなければ、まさに緊急事態にその行為に及ぶことはありえない。

溺れたアスリートを発見して、その後続けて救助に関わった選手の一人であることに間違えはないであろう。責任というより自然に目の前のアスリートを助けたい気持ちで胸が一杯になったのであろう。彼がした純粋な行為にただ、ただ頭が下がる想いであった。

その後の自分は、長身選手の持つ無限の力を信じてみたい気になる。

そして彼の行動にも注目した。しかし、40分経過しても経過に変化はなかった。

沖合いから2隻の高速艇が到着した。一隻は警察艇、もう一隻は救護艇であった。

救護艇から3人の救護士が桟橋に降りてアスリートのところに駆け寄る。そして同じ要領ではあるが救命マッサージを試みる。

「これで状況が変わるかもしれないぞ、頼んだぞ」

周囲の人とそんなことを語りつつ期待してみた。

しかし、それから10分程経過しただろうか・・・状況に変化がなかった。

その後、タンカーが運ばれアスリートは救護艇により病院に向う人となった。

その際、アスリートの体を真横から支えたのは救護士でも警察官でもなく、あの長身の選手であった。

救護艇が去った後、警察による事情聴取のため一部の関係者のみが桟橋に残った。少し離れたところでは長身の選手がすでに視界から消えていないはずの救護艇の去った方角に目をやり、立ち尽くしていた光景が目に焼きつく。

その後レース観戦に戻り、復帰第2戦の友人の晴れやかなゴール姿を見る事が出来た。

ゴール後は最高の笑顔を振りまいてくれた。彼にとって充実したレースであったことがとても喜ばしく思えた。また、これほどまで前向きでファイト溢れる友人を得たことに誇りを感じた。

「友人も死の淵から生還し、ここまで元気な姿になれたんだ。きっとあのアスリートも大丈夫に違いない。」

そう考えた後、不思議にその出来事が気にならずレース鑑賞を終えた。

しかし、翌日思いも寄らぬ人からアスリートの死の知らせを受ける。

この悲報のニュースであるが、自分には不思議なことに情報手段から耳にはいることはなかった。このニュースを避けていた訳ではあるまい。しかしことのほか多くの人が知っていたのだ。

さて、この出来事であるが最初は自分の中で封印すればよいと考えていた。

しかし、その会場に自分が居合わせたことを伝えるごとにこの悲報の話題となる。また、それぞれが過去の個々の体験によりこの出来事をとらえそれぞれの言葉で発することにつき、自分の見たありのままを語りたい気持ちにさせた。

つまり、いつの間にか次第に自分がその場に居合わせた事実にある種の責任を感じるようになっていた。

それゆえここに全てを書き留めた。

その日、アスリートはゴールを目指していた。私の友人と同じくテープを切る瞬間のため精神を研ぎ澄まし、日頃鍛えぬいた肉体をさらに追い込みつつ・・・

力を抜く事をまるで戒めるように、打ち寄せる波に力一杯向かっていた。まさに力を尽くし切っていた。

そしてその崇高なる精神はゴールした。

勇敢なる人生を讃える美しくもあり、また清き世界がそこにあろう。

海を愛し、人を愛し、スポーツを愛したアスリートに心よりご冥福を申し上げる。

肉体には限界があるかもしれない。しかし、精神に限界などあるはずはない。

仮にあるとすれば、拡大できる自らの世界を拒んでいるに過ぎない。

肉体が命じることより、時々刻々と変化し拡大する精神世界を重んじる。また生死を論ぜず、つねに生きる。生き抜く。

死が恐怖とするならば、封ずるにはその道しかあるまい。その場限りを大事にして、まばたきの瞬間すら意識を持ちしっかり生きる。

生きていても死んでいるような人がいる。

ならば、死んでも生きている人がいるのではないかとよく考える。

死を避ける事ができないのが我々人間である。あらためて考えるまでもない。人間はいつでも死と背中合わせに生きている。だからこそ意義がある。生きることにも死ぬことにも意義がある。

力を尽くしたアスリートと、その彼の生を支えるため献身的に働いた長身選手、かって死の恐怖と戦い、見事死の淵からよみがえり過酷なレースを征服した友人。

この3人のアスリートより、人間の尊厳と人生の与える意義があまりに深く重たいものであることを感じてやまない。

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挨拶からみる現代人気質

挨拶(あいさつ)はもともとは禅の言葉という。 挨は迫る、拶はその迫りくる挨に対し切り返すとの意味を持つらしい。禅におけるこの語の持つ意味は、問答をくり返して相手の力量を計るとの意もあるようだ。 いずれにしても実践を行とした教えに違いない。

鎌倉時代では挨拶を「言葉かけ」と呼び、人とすれ違う時の礼儀作法であったという。

その名残りであろう。挨拶が出来ない人は「恥」との教育が過去より受け継がれ現代に至る。

他国に目を転じると、日本のお辞儀スタイルが合掌に変わることがあれど、挨拶は万国共通の儀式、いわば世界の常識的マナーであるようだ。

この挨拶,いわば日常の常識的行為をしない(出来ない?)人が、老若男女を問わず増えたように感じる。新しい人間関係のわずらわしさを嫌うかどうか・・・昨今は挨拶をする理由が減り、しない理由は増え続けているようでもある。必要であるか否かを別問題と考えることはいかにも現代的!加えて様々な礼儀作法も比例して乱れていく感がある。

毎朝のジョギング中の挨拶を自らの義務として久しいが、これに応える人々を観察しつつ現代の人間像を検証する。

私の一日は、朝のジョギングに始まる。ほぼ年中無休、5時から7時の間である。

港を周回するコースは、気候が緩みだす春過ぎより次第に賑わい始める。人々は犬の散歩、ウォーキング、ジョギングなどに興じる。このほか、マイボートを眺める、釣り、自然散策、ダイエット、リハビリなど目的も人様々である。界隈は近年の埋め立てにより新しい住宅地が増えたことに古くからある住宅が融合し、実に幅広い年齢層が居住する。

年寄りもいれば若者もいる。顧みると古き良き時代の日本の姿。また、理想的な町並みのはず?である。しかし残念なことに祭りや自治会など、一斉に集い地域の活力源となる行事は年々参加者が減る傾向にあると聴く。

さて、どこにでもある街の朝の人間の営みではあるが、昨今は挨拶をする人かしない人か、まずは互いに見極める傾向を感じる。

また見知らぬ人には挨拶をしないと、あらかじめ決めている人種も少なからず見受けられる。

すでに挨拶の習慣がある人は、待ち構えたように誰彼ともなく挨拶する。しかし、できれば目が合わない幸運?を願いつつも、挨拶をしない権利を行使する人が着実に(?)増えている。

挨拶を交わす場合、それがただ挨拶だけの関係でも互いが笑顔となる。たいていはすれ違う時間が年中変わらない常連組。つまり毎朝、決まったところで決まった人と出会う。

気持ちの好い挨拶などと考え、趣向に趣向を重ねさらに親近感が増す。声色、アクセントを変える。または「おはようございました!」などなど・・・

そんな挨拶のやりとりを気持ちよく交わす人の姿が見えないと不安に駆られる。病気でもしているのかと心配になったりもする。その人が久しぶりに歩いていると「あー、よかった、病気でもされたのかと心配してましたよ。」 それからさらに親しくなったりもする。

これらの挨拶によって人間関係がはじまることは周知のこと。

「袖擦れ合うも他生の縁。」との言葉があるように、同じこの世に生を受け、この広い地球上、よりにもよってこのちっぽけな町で毎日すれ違うなど特別なご縁であることに間違いはなし!(前世で余程の因縁があったかもしれない?)

さらに気がついたことがある。

最近では若い人から声を掛けなくなっている。(見かけで判断がつきにくいほど、この時間帯に見る人々は総じて若ぶりではあるが・・・)

その例をあげると、まずは私のようなジョギングする人で言えば・・・

自分が無我の境地にあることも瞬間的にあろう。しかし目前を歩く人が全く見えないほどの精神状態であればむしろ歩くことさえ危険である。車や電柱や障害物にぶつかることにもなる。

要するに皆、体の良い振りをしているだけだ。あいさつが億劫だから集中している姿を装う。それなら会釈や軽いお辞儀でも良いではないか。浅墓な魂胆が透けて見えるから可笑しい。

ここは若いほうから挨拶するのが原則!とまずは考える。自然に思えるのは旧人類であろうか?かっての校内の部活動では常識であった。

例外を用意するほうが無茶な話。古の慣例を変えるほどの定理が存在しない現在は、この常識から逸脱することは道徳観念上の違反行為。

次なる例外といえば犬を連れ歩く人。

この輩、人間よりも犬、あるいは人に連れられた犬仲間の方に関心があるのかとついつい疑いを持ってしまう。

ペットを持たない人間にはあまり関心を持たない。ペットコミュニケーションなるものか、互いの犬同士を寄せ合わせては大胆に道路をふさぐ。犬同志のコミュニケーションが興味の対象で、周囲には一切の関心がない様にも見える。しかし他の人間に興味を示さないわりに、身なりだけは整えるから不思議でもある。過剰にみえるほど犬と一体化することを目的とし、散歩する人やジョギングする人の空気を一切読まないことが特徴。まさに犬でもいなければ外出もできない人達であろう。

また全てとはいえないが、歩道を彼等(犬と飼い主)のため譲っても平気な人が実に多い。まるでこちらが犬嫌いの変わり者!とでも考えてるのかどうか??また、驚くほど吼えているのに本気で叱らない。申し訳程度に犬の名前を呼び、なだめるだけの話である。そこで吼えられ迷惑を被った人間に対しては顔すら向けようとしない。自分の犬へのしつけを棚に上げ、反省の気配を微塵も感じられない。その様な飼い主に限って、歩道に少しの草むらがあればたがが緩み、周囲に気配を感じなければ糞をそのまま置きざりにする。人がいなければ行動がついに犬化してしまう?

一体、手に提げた袋は何のために持ち歩く?

次に自然を親しみながら歩く、老夫婦のごく一部に見られる例。

この周辺は干潟でもあり、飛来する渡り鳥が多い。この趣味があれば見るものを魅了し飽きさせない。彼等は折に触れあちらこちらと指を刺し、道端の花々や鳥の様子を見つつ会話を楽しむ。まさに二人だけの世界でもあろう。しかしながら・・・自分達から他人に挨拶する気配はない。

また、目の前に人が捨てたゴミがあれば、仲良く息の合った歩調で見事に障害物を隔てて歩く達人!本当は一緒に歩行する目的でもないと、自然を楽しむことすらできない、風流心なき人々ではないだろうか?

最後に、単独ウオーキングに興ずる主婦はダイエットが主目的。

いつも厚手の服を着こみ登場する。この辺りは年齢の割りにいまだ羞恥心があるのか(失礼!) ご自分からは挨拶をされない。我々フォークダンス世代ゆえか。。。この乙女心(羞恥心)がお年寄りになるまで続かないことを密かに祈る。

これらの朝の風景の登場人物に言えることは、挨拶をする人は総じて表情が明るい!

心をその時、開放しているから!また、挨拶の行為により開放することもあるだろう。(絶対にいえる!)

一日のコミュニティー活動の始まりだから、まずは誰彼ともなく出会った人から始めれば良い。

人の多い都会では中々出来にくいかもしれない。しかし、職場のいつもの顔から朝が始まるのでは、いかにも一日の誕生として鮮度に欠く。

知り合いでなければ挨拶はしない、利害関係が伴わなければ挨拶がはじまらないでは余りにも味気がない。また、挨拶により開口する時まで心を閉ざし続けなければなるまい。その方が案外疲れるのではないか?

他人との関係全ては、挨拶から始まる。

見返りを求めないで挨拶しつづけるのは、不意に受ける挨拶よりはるかに気持ちがよい。

ここまで書き進んでわかったことがある。

自ら進んで挨拶を試みるが、やはり一人相撲では様にならない。

何度か試みても反応がなければ、やがて根が尽きて挨拶をやめてしまう。

こうした繰り返しが他人を悪意的に見てしまうことにもつながる!!(まさに今回のブログはその内容である。反省!)

しかし挨拶の本分が冒頭に紹介した相手の力量を諮ることといえば、挨拶をしない人の評価は、こうして挨拶する方に委ねられる他ないものだろうか?否、そこまではいきすぎであろう。

まずは挨拶を復活させよう!本来の意味を取り戻す必要性が先にありと考える。

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携帯は殺傷力を持つ!子供の安全を考える。

15歳になると子供に護身用ナイフを持たすアラブ人の親。子を立派な成人とみなす儀式でもある。

封建時代には他の階級と異なる厳しい戒律により、その時代の精神性をリードした武士階級。

他人をあやめる権利と引き換えに、職務や名誉の為なら命に固執することなく、何時でも自らの命を断つために許された帯刀。

いずれも子を持つ親は、祖先の教えを敬いつつもごく自然に教育する。

「武器を持つ人をかなづちに例えると、彼等にとって問題はすべて釘に見える。」とはアラブの諺。

武力を持つと必ず使用したくなる!とは武の力学。

ただし、自分が所有するものが武器と気がつかなければ少し厄介な話となる。

近年、頻繁に新聞紙面をにぎわす携帯やネットによる子供同士のいじめによる被害である。

そもそもネット文化とは、見知らぬ相手と最初から内面同士の付き合いが出来る過去に見当たらぬツール。また、ローコストかつイントラクティブに情報をやり取りできる優れた文明の利器であることに異論はないであろう。

しかし、何分経験不足の子供に対してこの利器を与える場合、未熟な精神構造ゆえに誤った作用を加えることが多々あることを知る。

個から始まるいじめを多数の声により増幅させる点や、現実以上にバーチャルを信用したがる傾向性により、現社会は数々の悲劇を抱え込むことになる。

特に学校の裏サイト、2チャンネルなどは悪質性が高いところで評判のようだ。

(一体どうやって見るもか分からない自分も、ここは反省が必要か!?)

携帯やネットという便利なコミュニケーションツールが、言葉という凶器を借りて人間を罵倒する。

大多数のネガティブな現状肯定派を、ごく少数の好戦的人間の歪んだ感情操作により戦場に巻き込み、弱者を容赦することなく徹底的に痛めつける!

正々堂々と語れないことはネットで語る。他人を中傷する行為などは、むしろ堂々と語れる場所を与えられたかのごとく見受けられる。

文字に変換すると、悪辣な批判はますます憎悪の念を増長させ殺傷力すら持つ。

「他人を批判することで自らの存在を確立する。」とはよくある手法。

大人でも日常的にあることなら、子供の世界は押して知るべし。

「ネットを通じて他人を中傷することでようやく価値観を共有(?)できるグループができた。これからは仲間同志。同じ穴のムジナである。我々を批判する奴は許さないぞ~。いや間違ってもそのグループから敵視されることだけは御免こうむりたい!」

普通の子であれば考えることが当たり前。

このポジションを確保できたことへの安堵感からか、弱者を見つけては次から次に集団の力で苛め抜く。そんな陰湿な喧嘩が増えているときく。

我々の時代、つまり昔(?)はといえば

集団による暴行を受けても殴られる者に肝が座ってれば、その負けっぷりより、翌日からは散々殴られたにも拘らず殴った方から一目置かれ親しまれたとか・・・

また、勝者はすでに決着のついた勝負(けんか)を長引かせることはしなかった。また、あくまでもけんかに耐えうる精神力を持つ相手を選び、喧嘩の対象としていた。また、殴る側(苛める方)はあくまでも、一線を越えない喧嘩をルールとしていた。

そんなことを語るのは、過去にやんちゃ時代があったとする知人。

その彼はこう続ける・・・

今は違う!完膚なきまでに相手を叩きのめす。相手が強い、弱いなど意にも介さず。その結果として重大な危害を相手に与えるなどは始めから考慮しない!程度をわきまえることを知らない物同志が闘うから、こちらも仲裁したくとも手が出せない。

こう語る彼は合気道、柔道の有段者で、2つの段を足すと軽く二桁を超える実力者。

親と子のそれぞれの時代の喧嘩作法により、(無理矢理にも)今昔の感覚のズレを検証してみた。

さて、大人が利便性を感じてやまないこのネット文化ではあるが、未成熟な子供達に安易に手渡すことになると殊更にタガが必要ではないだろうか?

経験の少なさゆえ、見境いなく発する負の言葉の連鎖が、同世代の子供を絶望の淵に陥れる。過去に起きた悲劇的な事件が我々に警鐘を与える。

今後、殺傷性を帯びた武器ともなりうるケイタイおよびネットの利用につき、大人の議論を重ねていく必要性を感じる。勿論、立法化を含めて・・・

冒頭の話に戻るが、武器を渡すのは周囲が成人と見なしてからとするべきだ。

皆が所有するからでは、余りにも親の責任がない。

我が子だけは大人であって欲しいとする責任のない願望や、子供の所有欲のみを充たすためだけにこれらを与えることは慎むべきだ。

また、いじめとは犯罪。苛める側に大義や理屈など一切ありえない。あますことなくすべてが悪い。これらをさらに親が徹底的に教えるべきでもある。

引きも切らない凶悪犯罪が続く中、一向に減る気配もない校内いじめによる自殺の記事を悲しい気持ちで読み、子を持つ親として考えたことを綴る。

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店長が名ばかりの管理職?

大手外食チェーンの元店長が、訴訟まで起こし遡っての残業代を請求。裁判により残業代の支払いを命じられた会社は、今後、店長職の名称の見直し、仕事内容、および給与体系の変更、労働環境をモニタリングする目的での管理機構の設立などを公表した。

これらの方針の発表を受けたメディアの多くのコメントは、企業はイメージを損なわず世論の批判をかわせる範囲に収めるだけを目的とし、本題である給与および待遇面の改善については解決に至らず問題を先送りにしたにすぎないと伝えた。

属さない会社への経営批判としては、甚だ余計なお世話のように感じたが、たしかそんな内容であった。

その記事を読み、思わずこの記事を書く人と、それを読む人について考えた。

勿論、書く人は会社を維持、運営する立場の人ではあるまい。読む人の大半を被使用人と想定。その人達に向けて、同意を得るための工夫を施したメッセージを送る。そんな狡猾さをマスコミに感じた。不祥事で老舗企業が倒産することを、当然の報いであるとだけ評論することにあまりも酷似する。

新聞、テレビの報道はいつでもキャンペーン。世論の支持が記者の最大の関心事。

良い記事とは商売でいえば儲けのネタ。視聴率や購読数を要求されるマスコミは、自分が発掘し、発信するニュースを、世論の関心事と重なるか否かが大事。要するに記事が一般大衆に受けることが重要。Y興行のコメディアンよろしくだ。

だから・・事実を歪曲させることもしばしばある。その証拠にかって続いた捏造報道などがある。(ここのところ鳴りを潜めているのは、現場が綱紀粛正に努めているのでなく、その記事自体に鮮度が薄いからであろう)

しかし、ここは冷静に考えたい。

今回スケープゴートとなった大手外食チェーンの問題を取りざたする気はさらさらない。(食事のお世話になることがしばしばあるから?!)

この企業、人員の管理方法と食品の製造方法について、25.000以上のマニュアルを数えると聞く。

傍からは実に窮屈に思えるが、それに加えて今後は造反?店長の扱い方なるマニュアルが1つや2つ加わる程度であろう。(従順な社員であれば、他に方法がいくらでもあるはず)

むしろこの問題、社会全体が1つの方向性に傾くことが怖い。

例をあげれば格差社会。

この言葉を他人に対して自分の声で発したと時、それと同時に社会的にも道徳的にも、この言葉そのものに責任を持つ。あるいは言葉の持つ印象以外の感覚を、自らの思考で捉えることが大人としてふさわしく考える。しかし実際は、むしろ責任を放棄したつもりになる人が多い気がする。(本当に弱いと自覚する人は、周囲にこの言葉を語らないと思う)

すべては他人事?いや、自分達が理想として何を掲げ、何が出来るかを考えることがコミュニティー。唯一、動物と一線を画すところのはず!

他人の悩み事を、ただ面白可笑しく聞いて、自分に降りかかりそうな不安であれば、首を突っ込み話の中に割って入る。

その結果として、社会全体が本来あるべき自由闊達な意見を妨げる風潮となる。

理想は他人の権利を迫害せず、平和に全ての人と(人種、考え方を含む)共存する社会。違う考え方でも尊重できるリベラルなコミュニティー作りを尊ぶ。

現在の立場が強い、弱い・・・そんなことだけが問題ではない。

現在はどうやら、これらの観点にだけ偏りすぎている気がする。近視眼的だ!

だから仕事は何よりも報酬(お金)が優先する!

この論理が絶対の命題とすると、その価値観はお金から逸脱できぬ。

世に拝金主義だけがはびこる。

つまりは労働の本質や本人のやる気。はたまた人生においての仕事の意義。全てはお金が代償とするとの価値観の呪縛から一切が逃れられなくなる。

(諭吉様申し訳在りません!)

何はともあれ、いかなる残業代をも支払うべきとの論理とはいささか危険である。

(完全否定ではありません、悪しからず)

またこの議題の本質を問わず、降って沸いた話にただ乗りだけを考えるとすれば・・・

規模に関わらず会社には賃金規定、社員規則がある。(会社の登記に必要)

また、すべての会社には創業者の志と企業理念が存在する。

(創業者がいなければその会社は存在しないはず。)

それらの理念を理解した上で、会社の仲間入りを果たしたのではないだろうか??

現在の世論と迎合?する心地の好いムードに安住したいためだけに、会社を窮地に陥れることを考えていないか?

企業は社会の構成員として道徳心が必要なことはいうまでもない。

言い換えると、会社にも健全なモラルを持つ社員(構成員)が必要ということだ。

一部の企業の店長が名ばかりの管理職との報道により、世間の店長の大半が、職業としての店長たるプライドを傷つけられたことを、まずは考えたくなくとも想像してみたい。

私の知人で店長を生きがいとし、またその店長を目標とする人間が多数いることをあえて伝えたい。

この事例は、店長という職業名と、それに従事する人の名誉を著しく汚したことも長く記憶にとどめるべきであろう。

他人を強制的にコントロールすることで、アイデンティティーを保とうとする擬似インテリに追従することなく、自分の価値観で仕事を捉え、いつも仕事に対して感謝の気持ちを忘れない。疑問があればその場で直ぐに解決する。決して周囲を巻き込まない。

今回の店長にはこんなことを考えさせられた。

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ナイスRUN! 高橋尚子選手-②

                  

前回は、市民ランナーが見ても走れる状態でなかった高橋選手のことを書いた。

そのレース展開はあまりにも不自然であった。

一体真相は? どうして強引にレースに参加したの?

しかし、レース後の記者会見により意外な事実を知ることとなる。

まずはゴールした後の高橋選手の記者会見。

昨年の夏、膝にメスをいれる手術をした。苦しかったが走るためにやむ終えず受けたと。

また、夢をあきらめない!この気持ちを、幾度となく自分自身に語りかけた。

その度、挫けそうになる自らを奮い起こした。そんな内容であった。

語ったシリアスな内容とは裏腹に、なぜか表情に憂いがなく清清しくさえも感じた。

そして最後に現役続投を宣言する。

レース後の会見直後において、これらの内容を語るところに、今回の高橋選手の

参加に対する純粋な気持ちと、走ることへの愛着が分かる気がする。

やはり、完走を目的としていた。

いや、今回のレースは走りきることが大きな目的であったのだろう。

勿論、選考会などの意味合いを考えると、早く走ることに越したことはない。

大方の予想では上位で当たり前、優勝もありうる!であった。

だけど、早く走れる目算がない!

だから・・・

走ることを目的とした。明日に向って走るには、今日、この日をなんとしてでも走りきらねばならない。絶対逃げられない!!

この選考レースが、いや、五輪だけが走る最終目的ではない。

だから、辞退せず出場し、最後まで走り抜く。

また、走る姿を心待ちにしている人がいる。苦しい時に応援してくれた人や、世話になった人が大勢いる。

その人の前で、チャレンジをしている見せるためにも、頑張らなければいけない。

しかし、もし、結果が出せなかったら・・・ 

夢には先がある。いつまでも夢を真剣に持ち続けることが一番幸せな姿。

ゆえに走り続ける自分があれば、そのうち必ず、次の目標が見つけられる。

その目標は、ただ走ることにすぎないかもしれない。

それでも・・・

目標を達成した次の日も走っていたい。

8年前の自分がまさにそうだったから・・・

そんな、走ることへの彼女の純真な気持ちを感じた。

マラソンとは、目標向って走り続けること。目標を見失っても自分を疑うことなくひたすら走り続ける。たとえどんなに障害があれども、自分の力でしっかりと、また最後まであきらめずに走りきる。初めて、自分で決めた距離を走り終えたあの感動をいつまでも持ち続けて・・・

多くの人が、マラソンと人生を重ねる理由はここら辺りにあるのだろうか。

また、そんな清清しい高橋選手に、久しぶりに会えた気持ちがした。

あれほどの選手でも、故障をするとさらに大きくなるものだ!

さあ、自分も次の日曜日には思いっきり走るぞ!

また、どんな結果でも受け入れるつもりだ。(そんなの関係ねエ~)

そして翌日、少し重い体をいとおしく思いつつも、レースの余韻にひたりながら

次回のレースのこと、5年後、10年後のランナーとして進化(タイムではない)

した自分のことを考えながら走る、「至福ラン」 を楽しんでみたい!!

命尽きるまでの現役続投を表明しつつ・・・

最後に高橋選手、この度はお疲れ様でした。 ナイスRUN!

また、これからも100年走り続けて下さい!! (どこかで聞いた歌のフレーズか?)

追記

こうしてマラソンのレースを見ながらもいつも感情を移入してしまう。一流選手と重ねると、ますますこの競技にはまりつつあることが良く分かりますねえ~。偏見タップリの精神編を終わります。高橋選手。コメント待ってます!?

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明日は頑張れ!高橋尚子

明日は女子マラソンの五輪選考最終レース。

名古屋には、あの高橋尚子が出場する。

シドニーオリンピックの覇者。あれからすでに8年。

有り余るほどの栄光を、手にしたかにみえる彼女が

何故再びオリンピックに出場したいのか?

コーチとの訣別。スポンサーの離脱。マスコミの悪戯な批評。

しかし苦境にも負けず、自らチームを設立し、この8年間ずっと走り続けてきた。

高橋選手には、才能に加え走ることへの熱い情熱を感じる。

勿論、プロとしての自覚があると思うが、ただそれだけで

あの自らの偉業を達成した時以上に、自分を追い込むことはできまい。

では何が今の彼女の心を掻き立てるか??

彼女が走ることにより、影響を受ける人が増えたことも理由にあるだろう。

高橋選手が必死に走る姿は、多くの人の感動を呼ぶ。

偉大な功績を持つがゆえ、多大な影響力を持つ。

また、このチャレンジは結果にだけ執着したものとは考えにくい。

栄光はすべて過去のものとし、8年前に世界一になった自分を超える。

肉体も精神も更なる進化を遂げることになる。

高橋尚子は、走る姿により自己の人生、自分の存在をアピールできる。

この8年間、日本の女子に早い選手は数多く出てきたが、

すべての選手は、あのシドニーの高橋選手の走りと比べられていた。

それほどまで、彼女は当時、実力の違いを世界に見せつけた。

多くの日本人は彼女から勇気と元気をもらった!

あの感動をもう一度!往年のファンならずとも高橋選手に関心が集まる。

本日、大会前の高橋選手を見ると実に自然体に思えた。

充実した練習とともに心の成長を映した爽やかな面持ちは、

大いに期待できるものと考える。(だけど少し痩せ過ぎかな・・・)

戦前の得意の?マスコミの酷評など耳を貸さず、

しっかりと、あの小刻みなピッチで名古屋と日本中の応援を背中に受け、

後悔しないレースをして欲しい!

とにかく健闘を祈る!

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素晴らしき走友たち!

昨日は小雪も舞い、時折突風が吹きつける中、私の所属する

走友仲間の集いに参加するため、山口県下関市に向った。

そこにアスリート系クラブの名称チーム・ドMの会長が住む。

この度も、会長の自宅を提供して頂き、第2回ド・Mの集いが開催された。

ご興味のある方は、リンク覧にあるブログ名「トランジション」に、事実より

詳細に精緻な文章により描写されてるのでご覧ください。

特に彼のエントリーしたマラソン、およびトライアスロンの大会参戦日記などは、

読むものを瞬時にして彼の世界に巻き込む。魅了し飽きさせることなく。

その場に居合わせた?とこちらが錯覚してしまうほどの臨場感を味わうとができる。

また、世相と人生を語らせると実に熱い!しかも男臭い!!

また、硬派で青臭いところがノスタルジックな気分を喚起し心地良い!

そんな彼は私と同じ80年を青春として謳歌した人に違いない!

彼と是非会ってみたい!と考えると行動に移すことにためらいもなかった。

(実は、この会長のブログ「トランジション」を私が読んだことで彼とご縁を頂くこととなる。)

彼と初対面のマラソン大会より、ちょうど1年が経過。

その間、彼の持つ魔(魅)(身)力?に引き込まれるように集まるアスリートが8名。

佐賀県から福岡、山口、広島の4件にまたがる。

すべてが私と同じく、彼のブログを読んで集まった輩である。

この日、全員が初めて一斉に集まった。

 

異様な盛り上がりを見せたのは語るまでもない。

各々の趣味は自分の体を苛め抜くこと

仕事の合間を作り日々にトレーニングを積む。朝鍛夕錬を日頃の自らに課す。

走る距離でいえば、8人の平均は月間300キロを超えている。

一日で10キロ以上をノルマにしている面々だ。

そんな侍8人を簡単に紹介すると・・・

佳境に入ると一人で104キロを走る。血の滲む努力で、体重を50キロ減量することに成功!驚異的な肥満を克服したランナー。

義母の介護を献身的に努めつつ、貧血と格闘しながら、体に鞭をうち月間450キロをニコニコ走るスマイルランナー。

26歳までプロボクサーを目指し、今はリングがトラックに変われども、果てなき夢とともに走り続ける筋肉ランナー。

幕末に東奔西走した志士のごとく、萩の夜道を黙々と走る21回猛志こと、吉田松陰様似の沈着冷静ランナー。

笑顔の素敵な、お洒落な会話に品格と人間的な魅力あふれる、元エリート高速ランナー。

2年前に血液の癌を発病。その後事実を受け入れ、持ち前の明るさと気力により、見事に死の淵から生還した克己心あふれる奇跡の人。真の鉄人、アイアンマン!

そして、前述の炎の国道ランナーこと、会長と私の8人が集まった。

皆、日頃の練習の話、出走予定のレースのことなどを、飽きることなく語り尽くした。

ウルトラ100キロマラソン、フルマラソン。24時間マラソンの話題に花が咲く!

皆が市民ランナーおよびアイアンマン(トライアスリート)をはいえ、私以外はそれぞれに

素晴らしい実績をもつ面々。仲間の話を聴くことで自らのRUNに対するモチベーションが

うなぎのぼりに上昇することが分かる!!

そんな中、前述した癌、しかも末期がんから昨年生還され、リハビリを終えた後、

すでにレースにも参加できるほど回復されたT氏の話は胸を打った。

ここに彼の言葉を記述する。

癌の宣告を受けた時、気丈な自分も数分間気を失った。しかし正気に戻ると

すべてを受け入れることが出来た。

だから苦しい化学療法も厭わず継続できたことで、生還できたと考える。

医者を信じ、自分の力を信じて、必ず元気になる!

この気持ちを、どんな局面でも持ち続けること。

病は自分で作るもの、また大きくもなり、消えゆくことも事実ある!!

その証拠が私の現在の姿そのものだ!

病は予期しない時、突然訪れるもの。

だから平素の健康管理は、何より優先すべきだ。

特に体の頑丈な人やスポーツエリートは自分の体力を過信しがちなため、

我慢する傾向性が高い。よく心得るべし。

また、末期がんでも必ず治る!もし苦しむ人が周囲にいれば、血液の癌のことなら是非私に尋ねてくれ!

(※この日記を何らかの機会で目にされた方で、周囲に血液の癌の方がいれば、コメントをください。直ちに彼に伝えます。また、今、彼もそれを望んでます)

そんな話を皆の前で話してくれた。

ああ、感謝!回復を心よりお慶び申し上げる。

また、そんな彼とは昨日が初対面。もっと前にお会いできたら・・・とも考えた。

いずれにしても、会長の本音で語る人生観に賛同し、出会うことができた

走るという共通の趣味をもつ仲間達。

これからも人生に多くの障害、苦しみが待ち受けてるかもしれない。

だけどそんな時、すべてを受け入れ、その試練に負けない自分でいるために

毎日厳しいことを愉しい顔でやっていこう!

チームドMとは苦しいことを自然に選び、それぞれに不平をいわず対処し、

変わりいく自分に満足することなく、再び苦行を求め人生の

フィニッシュラインを目指し走り続ける爽やかな男の集団!

皆さん、これからもよろしく!!

PS

どなたか、血の池を泳いで渡り、鉛でできた自転車に乗った後に、五寸釘だらけの途を1キロ4分15秒で走る大会にエントリーしませんか?

ずいぶん先の話になればよいのでしょうけど(笑)・・・

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病は気から燃え上がる??

実はこの2週間、病んでいた。

頚椎の神経を壊してしまった。原因は長時間連続して見るパソコンにあった。同じ姿勢で見続けると、首に負担がかかり、肩が凝る。その症状が悪化すると神経を蝕み、最後はあの恐るべし、ヘルニアに近い症状を引き起こしてしまったのである。

病名は頚椎変形症。

パソコンの普及により今や現代病になりつつあると聞く。

今思えば、私の首はもともと弱い!(経営者であることとの因果関係はないようだが?)

成長してからの私の身長は180cmを超える長身のため、立ち話をしていてもよく「姿勢が悪い!」と周囲から指摘され続けてきた。

下を向くのと、上を向くのではどちらがいけないの?と単純な疑問が心をよぎる。こちらは草木と同じく、重力に逆らいながらも何とか直立しているつもり!屋内では、私より背の低いドアと過去より度々衝突した恐怖がトラウマ化したことも、首を折る悪しき姿勢が身についた理由でもあろう。とかくこの世は住みにくい。(引用)

しかし、この約10年間続けたマラソンにより、体力は同世代に引けをとらぬものと自負する。そんな自信が音を立てて崩れたのがこの2週間の出来事であった。

痛い!!ほんとに、マジヤバイッスヨ!

座薬に次ぐ座薬、今度は頓服に安定剤とギャルソネも真っ青な薬のてんこ盛り!レントゲンの後は、お決まりのMRIによる放射能の洗礼!首の牽引やら低周波やら、盛りだくさんの日替わりメニューにも閉口しつつ、一向に改善しないこの症状!

生!点数だけ稼ぎすぎてませんか! 頼むから効果がでてからのカウントにしてもらえませんか・・・ 痛けりゃぼやきたくもなりますよ!!

このまま痛むようなら、あと5分して救急車を呼んでくれ!」

家族にそう訴えつつ「このまま痛みで気を失うのも楽になる方法ではないか!」など不謹慎なことを考える始末。

その間、考えたことは

「今、自分が病であることを考えないようにする!」

 これは大きい!! 養生訓にも確か書いてあった!

とはいえ、痛みが我慢できる時ならまだ良いが、耐え難い激痛の時はどうするか?

とにもかくにも何かに没頭する。無理矢理にでも行動に移す!

痛みは、反射的なものを含め全ては自分の脳(意識)に宿る。痛み(症状)があれば自分は病気と診断し、病院に向かう。医者は豊富な経験と知識から、患者にふさわしい病名を授ける。その与えられた病名は、患者とその周囲の学習意欲を活性化させ、情報が情報を呼び込み、学習による症状をも意識のなかに植えつけてしまう。

やがて病名は、症状とともに潜在意識に刻まれ、存在感を増しながら患者独自の所有物と化す!?ゆえに病名が症状を悪化させないように、くれぐれも気をつけなければなるまい!

いずれにしても、自分は(大した)病気ではないとまずは考えるべきだ。そして病など考えて治るものでなく、むしろ考えれば考えるほど悪化するものであるとも・・・

何が幸いしたのであろうか、私の痛みが急速に意識の世界からなくなっていった。

今回の私の病は長期におよんだことより、影響は軽微とは言い難かった。しかしこの病のもたらした意義をまとめると、あの忌々しい痛みを伴った病も、少しはいとおしく思えるから不思議である。自分を成長させたところもあったことだろう!

「病も気から」

医学が発達した今、医学にそれほど頼れなかった先人の心の教えに素直に脱帽する!! 首の角度を気にしつつ!?

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2007年のサンタクロースに望むこと!

今日はクリスマスイブ。

街中はイルミネーションで飾り立てられ、何が模範かよくわからないが、幻想的(現代的?)風景をかもし出す。久しぶりに開いた市の買出しを終えた様に、人々は大きな包みを提げながら人で混み合う師走の街を行き交う。

今が旬よ!と近年,定番化した音楽が執拗までに耳に入り、マスコミはまるで大災害を報道するかのようにフェステバルに沸く人々の様子だけ騒然と写す。

クリスマス。もともとは教会と信者による宗教的儀式(祭典)

この文化が日本の大衆文化に定着した背景には、欧米の豊かな物質文明に対する憧憬があったことだろう。

今、我が国は欧米並みの物質文明を謳歌できるほどになり、その繁栄を象徴するかのごとく、この祭りは過激さを増している!!

バブル期や景気回復期など、この日を、これ見よがしに贅沢三昧する日本人の姿が度々放映された。経済の発展に伴い、商業的意義の重要性が増した。それに伴い宗教的な意義を問うことすら少なくなった。

この文化に対する日本人の精神的解釈はどうだろう??

(勿論、信者を除くが) 2000年の歴史を抱える欧米の宗教的儀式の完全模倣を目的化しているにすぎないのではないか??

精神的思考の支柱をもたぬ擬似行為は、後世の世にまで誤解をもたらすに違いないであろう!

そもそも、愛する人にだけプレゼント(物資)を送り、また送り返される行為を神が推奨しているとは思えない。

この日ばかりは家族を省みようなど語る、本日づけのA新聞の表紙を飾る看板エッセイなどは、とてもいただけない。

この一日の意義を訪れた今日、無理矢理、しかも場当たり的に解釈しようとしても土台は無理な話!

せめて懸命に考えようとするなら、この日はキリストと同じく、人類の幸福を考えるべし。

史上最悪の人道危機、残酷な殺戮が今なお続くスーダン、ダルフール問題は今こうしている間にも罪のない子供や女性が銃弾により倒れている。

内紛が多発するイラクの国民の生活、洪水により多くの人が犠牲になり、なおも治まる気配すらない世界で一番貧しい国、バングラディシュの人々。

皆、同じ時代に同じ空気を吸って生きている!

唯一平等であるはず?の空気の質について責任すら持たないと言っているのは、あの超巨大国!今日一日、とても幸せに暮らしている様子だ。(少なくとも前述の国々よりは・・・)

我が家では今日、そんな話をしてクリスマスの日を迎えよう!

親父なんてきっとサンタさん来ないよ~ って言われるだけだが・・・

このままこの外来文化の上辺だけを、我が子に教えるわけはいかない。

宗教的には異なるが、この日をクリスマスとして迎えるためにキリストの善行を心に刻み、人類の共存と平和を希求する日としよう!

そして子供に教えつつ自分を戒める。

キリスト同様、他人の苦しみを我がことのように考え、多くの人に愛を惜しみなく与える人になれますように!

そして、多くの人々が自分の家族を大切にし、贈り物をする気持ちを人類に向ける。人類皆サンタと化す。世の中は善意の贈り物で溢れる。しかしクリスマスを飾るだけの仰々しい包装紙は必要在りませんヨ!

すべて今年のお歳暮のように簡易包装で構わないからね!!

本日ブログを書き終えた後、何気なくテレビをつけると、日本人がフィンランドのサンタと称する人に会う設定で、その実況中継を放映していた。そこで敬虔な信者のコメントを聞き、今回のブログ内容の中で、クリスマスに対する認識に不足があったことに気づいた。それは、「信者はイブ、もしくはイエス生誕日である25日には、家族以外の人と連絡すら自重し、ひたすら家族といる時間を大切にする」との内容であった。著者の認識不足をお詫びすると同時に、この日の宗教的な重みについて改めて認識することになったことをここに追記する。

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選挙に行く心構え その2

いよいよ明日は参議院選挙の投票日である。

与野党の逆転なるか!国民の審判を仰ぐ1日。

などは世論を無責任に(責任をとる必要がない?)

扇動する一大勢力たるマスコミにお任せしよう。

しかし、メディアの情報をによると、

呆れる他ない政府高官の続けざまの失態。

まさに李下に冠を正さず!である。

国民に政治不信は募るばかり。

政治腐敗の影響も多いにあることだろう。

世相を映す反社会的な行為が度々横行する。

しかもとどまることを知らない。

この国の行方は一体??

嘆きだけでは何も変わらない。

政治には浄化作用がある。

過去にも腐敗と浄化を繰り返してきた。

では我々国民はどうすればよいか?

まずは選挙にいこう!

選挙に行かない人は、現在の政権に対する

ネガティブな支持者と強く認識すべきである!!

次に参政権たる権利を得た憲法について考える。

(実は先日、約20年ぶりに103条の条項すべてを

読み返したばかりである。)

憲法により、全ての国民に人身、精神、経済の自由

などの基本的人権は保障される。

それにともない国政を担う公務員の選定、罷免

の権利を持つ。

この権利は国民固有の権利であると15条で記される。

ゆえにこの権利を行使しない手はない。

どれほどまで苦労して先人がこの権利を獲得した

ことであろうか。

まさに他人に依存するべきものでない

個人の大切な権利である。

次に、憲法と法律と司法を解釈すると・・・

憲法とは、国民が現在の政権(政治家)に対し

遵守を促す不侵犯な約束事。

次に法律は政権(政治家)が国民を統治

しやすいように作る国民に対する指示書(規則書)。

そして司法により、憲法と法律が対立した場合に

この法律は、はたして憲法違反か否かなどを

見極める。いわゆるアンパイヤである。

我が国は法治主義たる法治国家。

ゆえにすべての審判は法廷にて執り行われる。

政治家(政権)も憲法違反は断じて許されない。

そのため政治家は憲法を改正したがる傾向にある。

また、作り変えることに使命感を持つ困った輩もいる。

これらは時代を検証することなく、今ある国同士の

利害関係重視する近視眼的な傾向が強い。

そして政党を作り、力の論理で少数意見を

封じ込める。

そこにイデオロギーがあろうとなかろうと・・・

とにもかくにも徒党を組む!

まさに最近の憲法改正における拙速な法改正

などが如実に物語る。

しかし政治家を選出するのは他でもない。

(前に戻るが)主権をもつ我々国民である

憲法で主権在民と謳う国の面目にかけても、

公共の福祉にかなう、正しい考え方を持つ人

選ぼうではないか!

子供の頃読んだ本で「罪と罰」の中にこんな

言葉があった。

礼儀正しい人間は退屈する義務がある。

一体、そんなに呑気でいられますか??

膨れ上がる財政赤字で今後の大増税は

避けて通れない。

また、少子化により、2011年からは100万強の

単位で人が減る国の地方行政は?

老人福祉は?若年労働者の人手不足は?

また年金は?

(データでは、和歌山県の人口程度が毎年減少!)

世界に類のない戦争放棄、戦力不保持、

交戦権の否認を謳う憲法9条の行方は??

トーマスホッブスが次なる警鐘を与えてます。

究極の自由は各人が自己生存のために

何でもする自由。国家とは人民が自由を

放棄した状態である。

先生よ!なんだか寒すぎると・です!!

(何故かヒロシ調で)

だけどそれでも選挙に行く自由は放棄しません。

たとえ真の自由と呼べる代物でなくとも・・・

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選挙に行く心構え その1

年を重ねるほど小欲が心を支配する。

必要以上に富をむさぼる欲、自分の力以上に

認められようとする欲、見返りを期待する欲

揚句には消滅してまでも何かを残そうとする欲

まさに足ることを知らない。

このため他人との諍いも絶えない。

恥ずかしさも覚えず自分の欲求を満たす。

そのことだけに心を奪われるとやがては

他人を思いやる気持すら失う。

何人も、知識、経験を重ねると同時に

着実に重たい荷物を身に着けていくようだ。

垢がたまる。

そのため顔も年齢と同じく加齢する。

欲望の数だけしわを刻み、それが顔をゆがめる。

醜い顔に見える人は、世俗まみれの欲に魂を

売り渡したからか・・・(容姿の意味ではない)

加齢するほど顔や表情にますます人生がにじむ。

ただ自然が良い。心が清ければ、歳を重ねるほど

気品の漂う顔と表情になるはずだ。

素晴らしい年輪と感じられることもあろう。

そして人生最後の日までその顔で通せることが幸せ。

垢がたまれば洗い流すことが自然。

心が決まれば得ることも失うこともない。

運命と人生が一体を得る。

このように自然な顔と表情をもつ人を

人生の達人と呼びたい。

お金がある、力がある、キャリアがある、

この程度のことでめがねを掛け直すことなく

同じ街にすむ住人として、人前にでて代表と

なる人を見極めようではないか!

そう、7月29日は参議院選挙

マスコミと政治家により扇動された世論作りに

耳を貸し、甚だイデオロギー乏しい政策に加え、

メンバーの入れ替えは自由!数あわせを主目的

とする現在の政党政治。

これらを連呼するだけの人が本当に必要なのか・・・

(三文役者より、文芸座や吉本のほうが立派にこなすぞ!)

そうだ!むしろ欲の少ない候補人を選ぼう。

本気で窮状する弱者の痛みと真剣に向き合える人。

独り権力者の中に在り、自由と平和を妨げる勢力、

不正の温床たる政党が絡む団体に警鐘を鳴らし、

現代の政治に染まらず、絶えず国民の目線により

国民を見続ける。

小欲でなく、世直しをするんだと大いなる意志に

燃える大欲のある人を選びたい!!

選挙中に目立つ人、政党の将来ばかり気にする人

はやめよう!

しかし選択のため費やす時間は決して多くない。

だからポスターにより度々候補者の顔を確認

することとなる。

理想は・・

心を写す顔そのものに、曇りがなく、選挙でも、

家庭と同じ顔で変わらぬ言葉を語る。

いつでもどこでも誰とでも、同じ穏やかな

顔をしている。

そんな人が愚直に一つのことを語り続ける。

ただ一言だけでよい。

この国と、それ以上にこの地球に暮らす人々に

これ以上の迷惑をかけません。・・・と。 

例年どおり選挙に行きます!

結果を問わず、断じて無私の心にだけ、票を投じます。

また、いつものように自分の名前は書きません!

(すみません、これが私の公約ですが違反した場合、

必ず顔に出ます。悪しからず! 笑)

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えびす・だいこくマラソンを走り終わる。

ゴールのテープを切る直前は目頭が熱くなった。

完走者一人一人にテープを張りゴールさせる

大会関係者の配慮にはいつも頭が下がる。

このテープを切った瞬間、12時間をかけた

競技とともに心と体の格闘が終わる。

海、山、大地、そして大会関係者の方々、ボランティア

の皆様、沿道で声援してくださった方々に心から

感謝を申し上げたい。

あの12時間を思い返す・・・

前半50キロまでは日本海を望みながら2つの

山を乗り越える。

思わず息を呑む絶景続きの美保ガ関、

岬の景観に魅了される。

自分の足で走って、この眺めが

見られてよかった!!

車のスピードではとても味わえない

贅沢な時間がしばらく続いた。

また展望台など、駐車スペースでの景観が

周辺で最も美しい風景でないことを

あらためて考えた。

50キロの中間点辺りで知り合ったランナーは

印象深かった。

その日の彼は、日常の会社経営者という顔(仮面)を

ゲゲゲの鬼太郎の目玉親父の仮面に掛け代えていた

沿道の人、一緒に走るランナーの掛け声すべてに

丁寧に応えつつも、懸命に走る姿は胸を打った。

吸水時にマスクを脱ぎ、そのマスクを搾ると

滝のように汗が流れ落ちていたことを想い出す。

彼のその日、一日の自分に課するテーマは

「マスクを被り続けて完走したる!!」

脱水症状にも打ち克ち、見事完走を遂げた彼とは

レース中に再会の約束をする。

中間点での軽い食事の後は、コース中、最も険しい

山越えが待つ。

その辺りより次第に、足の疲労感が募る。

ウルトラマラソンの本番は60キロから始まる。

よく語られるフレーズである。

ようやく平地にたどりつくと、眼前に宍道湖が現れる。

この先に目指すゴールがある!

しかし疲労からか、湖というよりとてつもない大海原

に見えてしまう。

80キロから90キロまでは疲れもピークを迎える。

完走が次第に見えてくる。すると、心が緩む。

疲労を首謀する真犯人は肉体と精神のいずれか?

と、私のいつものテーマについて考えはじめる。

距離の長いウルトラマラソンでは長時間にわたり

この問いかけが心を支配する。

完走した時に手掛かりがつかめるはず・・・ 

と奮起して走る。

しかし、給水所で滞在する時間は次第に増える。

そこでボランティアの方々より心暖まる激励の言葉

を受ける。

人は、美味しい食事よりも励ましの言葉によって

勇気づけられる! 誠に有り難い。

いよいよクライマックス、最後の10キロにさしかかる。

心を幸福な充実感が支配し始める。

この辺りより、今までの足し算を忘れ引き算とする。

「あと何キロ!!」と刻み始める頃からは

あれほど疲労した足が軽やかに感じてくるから

不思議だ。

やはり自分の肉体は精神の支配下にあるぞ!

ざまを見ろ!!(失礼!)

と、確信するとゴールの出雲大社が見えてきた。

やはり感情を抑えきれず、ただ、ただ興奮していた。

そしてゴールのテープが・・・

先にゴールした同胞から祝福の声を頂く。

上手い!上手すぎる!

ゴールで口にした水は幸福感とともに心と体に染みた。

12時間振りに腰を下ろして見上げた空は雲ひとつなく、

見事に高く澄んでいた。

日本海に沈みゆく夕日を感傷的に眺めつつ、貴重な

経験をした一日を振り返る。

「皆様有難うございました。また来年も

走らせていただきます!」

その時の仮面は、本日度々使用した苦痛を表す

般若の仮面は二度と使いません!

いや出来る限り使うまい!!

大会名のようにえびす顔、それとも

だいこく様マスク(?)にしようか・・・・

考えていると小石につまずいてしまった。

こんな足ではまだまだ、だめだ!

明日から鍛えなおしてやるからな!! (微笑?)

追伸

大会関係者様の誠心誠意のもてなしに心より

感謝申し上げます。

これからもこの素晴らしい大会が続きますよう!

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