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波止場のオヤジとアニキ

かつて無類の釣り好きでもあった。

その名残もあり、休日のトレーニングに必ず立ち寄る漁港がある。

季節を問わず太公望で賑わう草津港である。

その波止は市街地から至近の上、様々な魚種が釣れ、いつも太公望で賑わう。

昨年の秋は大量の鰯が回遊し、それを追ってハマチが群れを成した。

今、この時期といえばイカ釣りが盛りを迎える。

5年ほど前になるか。

漁港の波止で83歳のオヤジさんと、50代後半のアニキと挨拶を交わすようになる。

週末に限り悪天候に構わず走る私であるが、彼らも負けじとばかり、釣り糸を垂れる。

知らぬ間に、長い付き合いとなる。

近年では挨拶に留まらず、長々と話し込むようになる。

話題といえば、近頃の釣果に始まり釣果に終わる。

冗談交じりの、他愛もない話が大半である。

常連の一人、アニキといえば、地元機械メーカーのエンジニア。

この波止に通い詰め、10年が経過したと語る。

理由はこうだ。

それまでのアニキといえば、仕事一本槍の生活であった。

休日返上で働くことすら珍しくなかったようである。

しかし、ある時期に仕事で行き詰まり、転職を考えるまで追い詰められた。

丁度その頃である。

少年時代に度々訪れたこの波止に再び現れる。

釣り糸を垂らす。

ぼんやり海を見つめていると心がどんな状態にあれ、晴れ晴れすることに気付く。

子供の頃の童心、あのワクワクした感情になると語る。

また、休日が明け会社に向かう自らの気持ちは、以前とは別人の如く前向きに変わっていく。

仕事に対する自信も次第に回復していったとか。

「息抜きも大切。スローライフこそ我が人生!」

再び波止に通う人となり、感情だけでなく考え方まで変化したそうだ。

さて、その彼の行為である。

持ち物や動作において、確かに魚釣りといえる。

しかし、全くもって釣果にこだわらない。

魚を釣ればその場は素直に喜ぶが、釣れなくとも腹を立てない。

結果を追い求めると、モノに対する捉われの気持ちが生じる。

すると、大自然に心溶け込ませることが出来なくなるらしい。

「獲物は神からの恵み」と考えれば良いのだと。

時に素性も分からぬランナーに向かい、大事な会社情報を話すことに余計な心配をしてしまう。

しかし、これこそ海の導く力であろう。

その場その場により、心の開放に酔いしれるアニキに年々親しみが沸く一方である。

さて、次はオヤジである。

彼は数年前、愛妻に先立たれてしまった。

そのため朝っぱらからビール、つまみにまたビール!

無類の酒好きは、波止場の名物でもある。

そのオヤジ、釣り人と見れば近づき話しかける。

初顔とあれば、周辺の海の様子につき念入りに解説を尽くす。

釣りをするより、他人と会話している時間がはるかに長い。

家に居ても一人なので、ここに来て寂しさを紛らわせているのかもしれない。

何時しか、この波止を目指す私の最も気になる存在となっていた。

オヤジが、走ってきた私に向かい必ず吐く台詞である。

「そんなに足が長くては、走るのに邪魔にならないか?」

「これでも折り畳んでいる様子が分かりませんか?」 

事実、そんなはずないのであるが・・・

会話も洒落ていると言いがたい。

しかし、面白おかしくその場、その場を盛り上げる。

しかもごく自然に。

だから彼の周囲に人が集まる。

そんな親父との、先日の会話である。

彼より10歳年上、93歳になる方がかくしゃくと歩いてた。

顔見知りの彼について、オヤジは次の評価を加える。

「あの人はどうしてあんなに元気なのか分かるか? つまり、あまり悩みを持たないからなんだよ。

「あの体を見よ。20歳以上、若く見える。人生こうありたい。だろ?」

私が頷くと

そうと決まれば悩まないことだ、つまり自分を大切にすることだよ」

オヤジは続ける。 

「人間はいつもあれこれ考える、でも、そいつは悲観的なことが大半ではないだろうか。」

「だから早死にするんだ。私の友人を例にとるまでもなく、気が付く人、頭の良い人に限り早死にする。」

「ここで一つ忠告だ。 長生きしたければ結論のでないことは考えないことだよ。つまり後悔しても始まらないってこと。」

オヤジは次第に調子付く。 

「とにかくたった一人の存在が自分。そいつを中心に据え、ほかの誰よりも大切にしなくては駄目だ。他人が自分にどんな評価を下そうが、構うことなどない。自分を信じて、自分を愛し続けなさい。」

更に饒舌に・・・

「ところで、あんた。自分の歩いた足跡を拾って歩くことができるか?

 また、そんな人生に納得するか??

後ろを振り向く動作を繰り返す。 

 

「普通に考えると、人間は重い過去をぶらさげたまま前に進むなどできやしない。だからいつでも荷物を軽くすべきなんだよ。」

目の前の海を見つめ、しばしの独演会。 

 

「死んでしまったら痛いも気持ち良いもなくなる。生きているうちが華。

 生きているから何でもできる。とにかくその場で思いつめないことだな。

 将来の不幸を予測して生きるから、自殺を考えつくことになる。未来は明るい。

 良いことが待ち受けるといつでも思いなさい。また、強く信じなさい。

オヤジの熱弁が終わるまで、額の汗を拭くことすら忘れ聞き入っていた。

その日、彼から次なる人生の極意を学んだ。

考え方と行動にいささかの矛盾があってはならない。 

過去を忘れ、今に生きる。 

また、たった一人の自分を大切にする。

その場を立ち去るとき、彼のこれまでの生き様を想像していた。

「親父もきっと、波止場のアニキと同じ時期があったのではないか? 

いや、もしかして、今がそうい時期かもしれないぞ。 

そういう自分だって、言葉にできない不安をこの場で解消しようとしている、ほとんど本能的なところで・・・」

そう考えると、人を惹きつけて止まない海の魅力と、偉大なエネルギーをあらためて感じた。

「海により人は癒される。また、海を前にすると人は素直な気持ちになれる。」

波止場のオヤジとアニキと共に、これからも明るく元気に年を重ねてゆきたい。

魚屋さんの想い出

可愛いい、可愛いい魚屋さん♪

2坪程の敷地にある店舗を横切ると、思わずあの懐かしいメロディーを口ずさみたくなる・・・

そんなこじんまりとした魚屋の店主は、我が住む町一番の人気者。

藍色のハッピ風作業服を身にまとい、魚屋お決まりのねじり鉢巻とはいかないまでも

手ぬぐいを小粋に腰にぶらさげる。

じっとしていることが苦手なのであろう、店の外に出ては道行く人と歓談している姿ばかり思い浮かぶ。

そうした場面には、いつも献身的に店を手伝う奥さんがいた。

微笑みながらごく自然に客との会話に溶け込んでいた。

魚屋さんに通えば、町の情報通になれる!それほどホットな話題をいつも提供してくれた。

その人間集団の前を、野良猫の親子が堂々と登場する。

私のように猫嫌いにはいささか堪えるが、いつものシーンである。

主人の話では店の始まる前、つまり40年以上も前より、猫の祖先はこの辺りで暮らしていたとのこと。つまり、猫は先住民であるからその権利は守られるべきと主張する。(つまりは、無類の猫好きでもある。)

これまで主人が野良猫に残った魚を与え続けてきたものだから、途絶えることなく店に居ついてしまったようだ。

時に行列が出来た時期もあったとか?

『そいつが人間であったら・・・』とは、いかにも人の良い店主の語りである。

白髪交じりの頭髪を整備を尽くした芝生の如く、角を尖らせ刈ることが自慢であった。

横一文字にくっきりと生え揃った眉毛は、妥協を許さぬ真っ直ぐな性格を象徴していた。

しっかり開いた野性的な瞳は、美しいものをそのまま観るため備わったものだろう。

『オレ、もう治らない病に冒されているんだよ』

店主が呟いた一言が今も耳に残る。

それは、数週間店を閉めた直後に語った言葉であった。

あれから4年の歳月が流れた。

その間というもの、店主は入退院を繰り返した。

激しい外見上の変化を目の当たりにすると、副作用の強い薬で治療していることが容易に想像できた。

病院にいる時間が次第に伸びていく。

それでも正月の魚を顧客が待っているのだと、病院からその時だけは許可を得て、店を開けていた。

やがて、配達で使用する愛用バイクの姿が見えなくなった。

あれほど店の前を群がっていた野良猫の群れが、嘘のように消えた。

店のシャッターは閉まった状態が続く。

店先を通過する人々の流れが早足に変わっていく。。。

最後に店主の姿を見かけたのは今年の秋祭り。

自宅前のベンチで杖を掲げ座っていた。

その店主の目前にみこしが停まる。

すると、ご家族に両脇を支えられながらも立ちあがり声援を贈っていた。

元気な子供達がみこしをリズミカルに揺らす。

その間、店主はとても柔和な顔をしていた。

子供の頃の想い出を、記憶の中に重ねていたのだろうか・・・

そのみこしが視界から消えてなくなるまで、ずっと目をそらさず眺めていた。

祭りのあった日から2週間が経過。

けたたましいサイレンを鳴らし救急車が店主の自宅前に停まる。

やがて店主は車上の人となる。

最後に車に乗り込んだのは、横たわる店主を心配そうに見つめる奥さんであった。

『無事戻ってきてくれよ』心から祈る。

翌日道を通りかかると、魚屋のシャッターの前に店主の訃報を知らせる葬儀社のたて看板があった。

『駄目だったか・・・』

そのシャッターの前を猫が横切る。

共同購入車のスピーカーからは、いつもの陽気な音色が聞こえる。

見上げると抜けるように高い秋空。

店主の育てた黄色の花が、プランターの中で活き活きと咲き誇る。

来年度、この近くに大型スーパーが建築される予定である。

もはや、これほど味合いある店は出てこないであろう。

人が変われば、街も変わる。

だけど、良き想い出は記憶の中に大切に仕舞い込む。

人情味溢れる街の人気者と昭和の面影は、愉快な話題に包まれた数々の買い物シーンと共に、人々の心に残り続けよう。

また、お会いしたい。                      合掌

修験道に学ぶ

厳しい修行に向う気持ちは純真な信仰心。

頭で思考するだけでは到底、物足りない。

行動に起こしても結論の出ないことが数多ある。

宗教とは理解するものでなく、信じるものだと心に決める。

そう考える人が、厳しい行に向かう。

仏に会うため、自らが仏になるためにひたすら行ずる。

眼前には絶体絶命の修羅場が待ち受ける。

そこは死を覚悟し、自らを奮い立たせる。

この先自分は仏になる。

また、きっと生まれ変わると信じる。

即身成仏。

死とは何?

肉体的に言えば、生から死の状態への移行。

微生物、虫けら、魚、鳥、動物から人に至るまで、すべての生命体は等しく死を迎える。

生まれた時から死ぬまでの時間の長短など問題のうちではない。

生ある物に必ず訪れるのが死。

死を恐れたり、忌み嫌う必要など何処にもあるものか。

生きながら、あの世を臨む。

あの世に立ち、始めてこの世を覗く。

体の力が不思議に抜けてくる。

そう、生と死とは魂と肉体とのご縁に過ぎぬ。

自己の不滅を意識に刻みこむ。

すると、仏の存在が益々身近なものに思える。

魂の在り処と、仏の声をいつでも尋ねる生き方を修験道の行者より学ぶ。

友へ

心を人に明け渡してはいけない。

その心、常に我が身にあることを尋ねる。

人の心に捉われるばかりに、自分の心の棲家がなくなるのは愚かな事。

いつも自分の心は我が心で埋め尽くす。

そのために心の緊張が必要となる。

いつでも他人が入り込めないよう、隙を与えない。

また、いつでも志を掲げて行動し続ける。

油断するとまた無礼な奴らが侵入してくる。

長く潜伏して折角これまで育ててきた心の骨格を、容赦なく喰らい尽くす。

他人の言葉、特に毀誉褒貶は真実に乏しい。

これには、目を向いて撃退しよう。

他人の行動だけを評価しよう。

他人の真剣な眼差しが放つ光のみ感じよう。

情緒を抑制できないようでは、大事は成し遂げる事は出来ない。

今後も他人の責任にしないため、自分の道に自らが明かりを灯す。

その明かりは、多くの路頭に迷う人を救済する。

そう、例えばこんな事を一日中考え続けるとする。

悩みがあろうとすぐさま消え去る。

心の問題は、『自分との知恵比べ』とだけしておこう。

2011年8月6日原爆の日

8月6日は広島原爆の日。

66年前のこの日に人類が初めて核兵器を使用、同じく地上に住む人類を一度に大量殺戮した。核の脅威に晒された忌々しい記憶を戦争を知らない世代に正しく伝え、核なき世界にすることを世界中の人々に強く訴える日。

長崎と広島の原爆の日は、これからもずっとその役割を担うことになろう。

さて、私のこの日の行事は、数年前より変わらない。

原爆ドームのある広島平和祈念公園で、被爆ピアノコンサートのお手伝いをすることである。

音楽の力は時に人々の心を解きほぐし、また願いを求める人々の心をつなげる。

ピアノの美しい音色により、周囲の空気が一つになる。

それが至福の瞬間であると、主催の調律師さんが度々語る。

いかにも手作りであるが、まとまりのあるコンサートであった。

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後ろが原爆ドームの方角、広島は川の多い街

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福島から避難してきた小学生。引越しにより家族が3倍に増えたとは・・・

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記念式典が終わった直後

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被爆したアオギリ、焼けただれたが立派に成長したことより、復興のシンボルとなる。この木の下で被爆体験を長年語り続けてこられた沼田さん、心よりご冥福をお祈りいたします。

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草笛演奏

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外側はガラスが突き刺さるなどして傷だらけ、しかし内部はピアノの所有者かつコンサートの主催者である調律師さんがしっかり調律される。

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横のキズ跡がひどい。人間であれば重度の火傷であろう。当時のピアノは家一件分の値打ちがあったとか。

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夕暮れ、コンサートは無事終了。先頭でピアノを抱える人は、あの?

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灯篭流し。

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肉親の魂を弔う人、平和の願いをこめる人、それぞれが想いをこめて浮かべる。

皆、流した灯篭が視界から消えるまでその場にいて願い続ける。

感受性を鍛えよう

生きる時間には限りがある。

だから間延びした生き方に疑問を持つ。

しかし、実際は秒読みであるのに拘わらず、ついつい明日があるとか、まだ直ぐには死んだりしないだろうと考えてしまう。

緊張感の持続は難しい。いや、頭で考えて出来るものでもない。

時間を越えるには、たった今、この瞬間に没頭する生き方しかない。

無意識に現在を生き抜くことで、時という概念を越える。

それは意識として先に捉えることではなく、感情を優先とすることであろう。

その感情は人間に備わる五感を基とする。

そして感情とは、言わずとも知れた喜怒哀楽。

その感情に付随する行為とは笑うと泣く、この二つ以外に全く意味がない。

五感に働きかける行為だけ感情を招く。

そこに意識を邪魔させてはいけない。

何故なら、凡そ若くはない大人の意識はマイナス思考である。

過去の失敗、敗北、挫折の経験が素直な感情を阻害する。

すると、感情まで届かずに意識の中で物事が処理される。

加齢とともに感動が薄れるとはこうした心の働きではないか?

まず、意識することをやめ、自分の素の行動を支持しよう。

そして自分の感情を信じよう。

また、心にブレーキをかけて行動することはやめよう。

ストレスが引き起こす悲劇はいつも痛ましいものだから。

人生とは感じることである。

感じることなくして人生とは言えず。

2011年スタート!

除夜の鐘とともに新しい一年がスタートした。

鐘の音とともにすっかり身も心も刷新され、何もかもが新しく感じる。

誕生とは、かくも新鮮な感動を伴うものかと・・・

また、1年の経過とともに、この世からの退場が着実に近づきつつあることも合わせて感じる。これは、ささやかなる我人生を少しでも意義あるものとしていくため必要不可欠なことでもある。

とにかくここは見聞きするもの、身、心に至るすべてを真新しく感じたい!

お正月を一年の区切りとする慣行に、改めて感謝したい。

一年の計は元旦にあり。

前日、大晦日もやはり走ったが、今年も走る!

そういう訳で走友S氏と待ち合わせ、日頃の各々のトレーニング場所でもある山でご来光を見ることにした。

6時、凍てつく寒さの中、二人は標高314メートルの山、鈴が峯に向う。

しかし、いくら走ってもちっとも体が暖まらない。耳や足に寒さにより突き刺すような痛みを感じる。

外気温は氷点下3℃である。

空を見上げると雲がなく、月と一番星がやけに眩しい。

回り道をしたため、登山道入り口にたどり着いたのが日の出直前となっていた。

東の空は朝焼けにより朱色に染まり始める。

多島美を誇る瀬戸の島々のシルエットが、よりはっきりとその姿を晒す。

二人はあわてて山道を駆け上がる。しかし、さすがにS氏のスピードには着いていけない。

富士登山競争二桁の実力を見せつけられる。

『今年の運を賭してでもご来光には間に合いたい!』

寒風の中ひたすら山道を駆け上がる。

息がはずみ、汗が流れ落ちる。

しばらくして先に着いたS氏、

『どうやら間に合ったようですね』

そこにはすでに50人程が、寒風の中でひたすら一年の誕生を待ち受けていた。

そして、いよいよご来光である。

一瞬にして、躍動するエネルギーを全身に浴びる。

その後は刻々と変化する太陽の形を見つめる。

器を逆さにした形から、はっきりとした円になるまで1分程度であったか、

まるで子供がこの世に誕生する時の気持ちに似た感動を覚えた。

地平線でなかったため、その後日差しは正視するに耐えられなかったが、それでも美しかった。

その眩しさの中、居合わせた人は様々なアクションを摂る。

じっと手を合わす人、万歳をするグループ、カメラに収めようとレンズを見つめる人。

それぞれが一瞬に無限を求めた。

感動は時とともに失うものである。

しかし、消えてしまう訳でない。

いつも感動を忘れずにいるためには、やはり日々、心を新たにすることだ。

そんなことを考えつつ、15キロの山地トレーニングで一年がスタート。

因みに、その後3日間続けて同じ場所にてその日のご来光を愉しんだ。

さあ、今年も走りまくって、またしっかり働いて良き一年としたい。

死生を観ずる 

生前に功徳を積んだ人、また諸悪を尽くした人、富裕にある人、また貧にあえいだ人も、すべての人に等しく死は訪れる。

しかし、肉体の変化でいえば生の状態から死の状態に移行したにすぎぬ。

生命体すべてに共通して言えることは『命あるものは必ず滅する』という命題である。

肉体的にいえばいかなる事由も抗えず、受容する外ない。

しかし意識として死を受容するとき、死後の世界に関心が向く。

この世界であるが、信仰や迷信を含め情報で溢れんばかりだ。

また、過去に刷り込まれた情報を受け入れたままの状態でいる人が目立つ。

その多くは肉体の移行に限らず、個の感情が存続しつつ死後の世界に移り住むイメージに捉われている。

そこで死後を生前以上に意味ある場所としたいとか、ハッピーに過ごしたいなどの欲が生じる。

そのため生きているうちに死後の世界へ正しく導く手引きとしての方法論、あるいは生前懺悔のプログラムが必須となる。

結果、人は神仏を対象とし信仰する。仏法だけでも8万4千もの法門があるという。

さて、死後の世界を身近に感じる契機であるが、絶望の淵に追い込まれた時、肉体が病変もしくは著しく衰退した時、あるいは親近者が亡くなった場面であろうか。

そこで、死ぬことで現実とは全く異なるステージが用意されていることを切望する。

この死への憧憬であるが、動機の根底には観念的に死を恐れることが起因する。

その畏怖に対して、心を解放することより精神の安定をはかる。

つまり、追い詰められた状況や試練が死への恐怖心を払拭し、死後の世界に願いをつなげる。

死は必然とはいえ、時として便宜なものである。

では、生死を超越した生き方があるか?

死を状態の変化と考えられるよう、今まさに生きている状態に没我する。

さもないと、実際に生きる姿(リアリティー)が死後の世界を奉ることで意義を得ることになりかねない。主客転倒といわざるをえない。

死後の世界を美化し、現実に在る世界以上の価値を与えようとする作為に危険がはらむ。

在りのままの生を観じるため、死について考えることも必要であろう。

しかし、死後の世界などはすべて想像の世界である。おまけに前世などもありえない。

瞬きするこの時間だけが実在している自分であり、自分の住む世界。

たとえ死後の世界が実在したとしても驚くに値しない。

自分が今、在ることを確認するのはまさに自分の他なし。

他人は、自分でないことを示す存在にすぎない。

仮に死後の世界だとしても、その場所にあればそこで生き抜く。

死んだあと、また死ぬかもしれないが、それでも本来の自分を見つめる。

もし、その必要がなくなると感じれば、その時始めて死んだとすればよいではないか。

人の一生は死ぬ事により完結する。

この考え方は、心の状態如何では両刃の剣となる。

当たり前であるが、死とは生きていない状態で突然訪れるものだ。

死んだことさえ忘れるほど、夢中に生き抜く他はなし。

                     

平常道の道険し

『無事、有事の如く、有事、無事の如し』何時、いかなる時でも泰然自若の心構えが求められる。有事が起きた時に狼狽しないことは、普段から平常道を踏むことに余念なきことが必要であろう。

誕生日を迎える月は人間ドッグの世話になると決め、早いもので10年が経過する。

過去に心配するほどの病気もなく、またそれほど悪い指摘を受けることもなかった。

貧血、総コレストロール異常低値、BMI低値(-9)という3つを異常と指摘され続けてきたが、いずれも思い当たるところが大いにあり、まさに走る生活習慣病(症状)と少々誇らしくも考えていた。

さて、この月初に済ませた人間ドッグのことである。

今回は報告書が届くまでの間がいつもより長いことに気付きつつ、日常に忙殺されていたためそれほど意に介することなく時が過ぎた。

しかしつい10日ほど前、普段とは様子が異なる分厚い診断書が手元に届いた。

手触りによりCD類が一枚入っていると推測した。

気になるのでその場で開封、すると・・・

要精密検査 

上部消化菅X線検査による胃噴門部粘膜ひだの集中像疑い、陥凹性病変の疑い

(注意!この文言で検索されて初めてサイトをご覧になった方、今すぐ病院を予約し、それから続く文章を読んでください。)

一瞬、胸が締め付けられる思いがした。また、心臓の鼓動が高まる。

衝撃の後に生じる感情といえば、やはりネガティブが自然であろう。

診断書に書いてある文言を幾度となく繰り返し読むが、実におぞましい。

一瞬にして、読む人を恐怖の淵に陥れる寒々とした言葉の羅列・・・

初めて遭遇する言葉に対し、出来る限り想像力を駆使して内容の解釈に務める。

しかし、理解しようとあがくほど負の解釈となる!

もともと健全な健康状態にあることに拘わらず、次から次へと妄想が心中に去来する。

私が炭酸系アルコールが大好物であること、香辛料をこよなく愛すること、辛い物が大好きでキムチに七味をかけて食べること、イカの塩辛が好物であること、子供のころチクロ入りジュースを大量に飲まされたこと・・・あれやこれやと思い巡らす。

挙句は、全く症状がないことに焦りすら感じていたのだ。

どうして症状を見抜けなかったのか?それほど自分は痛みに対し鈍感であるのか?

自分を責める次第である。

その夜、ネットでこの症状につき知識を得ようとパソコン前に座る。

しかし、見終えた後はすっかり気分が悪くなっていた。

寝苦しい一夜を過ごす。

さて、あくる日の朝一番に病院に向う。

その日、医師に対して全く症状がないこと、過去にも思い当たる事がない旨を伝える。

内視鏡検査が1週間先と決まった。

その後の1週間は、それこそ腹が煮えきれない状態であった。

『『病名をつけてもらうために病院がある。だからきっと何かの病名がつくはずだろう。』

その何かは、今の自分に分からない。

得体の知れないものかもしれない。また、当たり前にあるものかもしれない。

いずれにしても、病の名前がつけば安心するであろう。

また、何もないかもしれない。勿論、それに越した事はない。

『病であれば闘おう!どんなに辛くとも逃げる事はできないのだから。』

繰り返し考えることで、心の準備をしていたようだ。

さて、前置きが長くなったが結果である。

『異常なし』

胃カメラが移しだす我持ち物でもあるホルモンは、見事なピンク色をしていた。

若い医師は私の胃の中を宇宙旅行のガイドのように丁寧に説明する。

そして、この度疑われた理由について、人間ドッグのCDをパソコンで開けながら解説を加える。

要するに元々あるシワが犯人であった。それが胃の入り口にあることにより病の疑いをかけられたようだ。

病院から開放され、日常の業務に戻る。

胃カメラの苦痛など何もなかったかのように椅子に座り、大きく吸った息を吐き出す。

また、昨日と同じく仕事に向う。

この10日間を振り返る。

確かに、今回の病の疑いは晴れた。

個人的見解でいえば、最も良い結果であったといえよう。

しかし、私の医療に対する信頼は少し揺らぐこととなる。

結果、疑わしきものを見逃す可能性についても考えざるを得ない。

従って、健康維持のためには自己管理が大切であることを身にしみて感じる。

人間ドッグは、それらを履行した上での保険とみなすべきであろう。

頼るべきはやはり、この我が身一つであった。

病気は早期発見が必要である。

だけど、病気になる時は病気になる他ないのである!

最後に良寛様の災いから逃れる妙法を紹介したい。

災難に逢う時節は災難に逢うがよく候

死ぬる時節には死ぬがよく候

いつか訪れる病や死に心が捉われないようにするためには、

いつでもこの心構えでいる必要があろう。

さあ、仕切り直して今夜は一杯飲むとしよう!

一人旅

我が身を空に預ける。

そこで、『この我とは一体何か』と考える。

我を我となすものが、何処か必ずあるはずだ。

それは身体ではありえない。

ならば、我とは『概念』といえよう。

それを説明せよと、言葉にすることはできない。

もともと言葉などは、我欲を充たすための小道具。

欲望の欠落から生じたもので、その多くは装飾品の類にすぎぬ。

だから、言葉でたどりつくプロセスにより、多くは的(真理)から外れる。

もともと『概念』は言葉から想起したものではない。

また、自己以外の理解を求めるものでもない。

ここで『概念』を『魂の雄叫び』とでも言い換えようか・・・

気着かず一生を終える人もあろう。

言葉として探すことに捉われ、言語の世界を一生放浪する愚挙もあろう。

いずれも空しい。

されど、識ることでその見返りを求めてもいけない。

もともと『概念』は、処世とは縁遠いものとだけ覚えておこう。

さあ、旅にでかけよう。

地上でたった一人の絶対無比なる存在を探す旅に。

世俗と全く異なる価値観で、個の個たる理由を探す旅に出よう。

そのために一人になる。

すすんで一人になる旅に出かける。

そっと身体を空に預けて、内なる声を尋ねたい。