その妊婦さんは停車駅までの間、じっと苦痛に耐え続けていたんだ・・・
男である私にとって想像すら出来ない辛さではないだろうか。
理解できない上に感情まで移入すると心が錯綜する。
出産に臨む際、あと少しで対面する我が子の顔を想像することで次々に襲い掛かる苦痛に耐える・・・聴いた話を思い返す。もっとものように聞こえるが、やはり体験なきゆえ分からぬところがもどかしい。
出産の苦しみに比べ男の抱える苦悩など・・・そう考えると、「女性には逆立ちしても太刀打ちできないもの」とは、私が性差を考える時の結論となり久しい。
「苦しい、苦しい。」
うめき声が次第に大きくなる。
事態を見極めようと、幾人が近くまで歩み寄り様子を伺う。しかし手がつけられぬ程、緊迫した状態を目の当たりにすると、しばらく立ち止まり様子は見つつも、一応に心配そうな面持ちで座っていた元の場所に戻る。
最初に妊婦に声をかけた男性は、その後も誰よりも心配そうに妊婦を見守りつつ、呼びだした乗務員の到着を気にやり周囲を幾度も見渡した。
車内は張り裂けんばかりの緊張感に包まる。
30秒程が経過したであろうか・・・・
ようやく若い女性乗務員、続いて男性駅員2人が駆けつけた。
男性駅員は様子を伺った後に職務的質問を試みたが、妊婦は答える状態にない。
横から先の男性客が妊婦に成り代わり状況を説明し始めた、その時であった。
「息が苦しい。誰か助けて。。。」
千切れるように悲痛な声が辺りに響き渡った。
一刻の猶予も残されていないことは誰の目にも明らかであった。
駅員が別の男性駅員に救急用タンカーの持ち寄りを命じた。
その時の私は、ただ状況を見つめて先を案じるだけでとても冷静な状態になかった。
「この妊婦に何もしてあげることができない。また、苦しんでいる人を前に、これだけ大勢の人が何の手助けもできない・・・」
時が経つにつれ苛立ちが募る。
女性乗務員と男性駅員も、判断つきかねる様子がありありと伺えた時である。
一人の若い女性が、真っ直ぐ妊婦さんに歩み寄ってきた。
年齢は20歳代前半であろうか、小柄で大人しそうな女性であった。
(他の車両から移動してきたのだろうか?あまりに不意に現れたので、どこから来たのか判断がつきかねた。)
その女性はたどり着くやいなや、今まで自分の首に巻いていたマフラーを脱ぎ、そっと妊婦のお腹に載せた。そして妊婦のお腹をやさしくさすりながら駅員に向かい語る。
「妊婦さんの体を直ぐ横にして、寝かせてあげて下さい。この座った状態が妊婦はもっとも苦しいのです。シートをゆっくり揺らさないように倒しましょう。」
若い女性ではあったが、落ち着いて語る口調には年齢を超えた威厳すら感じた。
3人の駅員は言われたとおりシートを横に倒した。
若い女性はお腹をさすりつつも、今度は横たわることになった妊婦に問いかけた。
「何週?痛むのはどこ?」
すると妊婦のほうからはっきりした返事が返る。
「36週です。この辺りが・・・」
若い女性からは容態を伺う話がしばらく続いた。その表情は依然厳しいものの、妊婦は質問に応じていた。
「何か凄い人が現れた。この女性はこのような緊迫した現場の経験を積んでいる人に違いない。その証拠に実に堂々として落ち着いている。また、行動に迷いが見当たらないし、無駄な動きを一切しない。」
しばらくして駅員が尋ねた。
「失礼ですが・・・看護婦さんですか?」
その若い女性は、さして大したことでもないことにやむ無く答える様子で軽くうなずく。
その一瞬でさえ、相手の変化を見逃さぬ峻厳なる雰囲気があった。
「大丈夫、私がついているから。絶対に安心して。心配しないでね。」
繰り返し、諭すように妊婦に言い聞かせていた。
シートを横に倒したことで姿勢が楽になり、また頼れる存在をそばに得たためであろうか・・・あれほどまで激しく痛みを訴えていた妊婦が、少しづつではあるが落ち着いてきていた。
看護婦さんが妊婦のいる車両近辺に乗り合わためぐり合わせに、思わず神に感謝したくなる。(否、神様の語彙そのものを自分なりに解釈すると、まさに神様である。)
しかし、離れた車両では事態に気付かずにいたであろう。本当によかった、と心より安堵した。だけど妊婦は、たった今まで一人で苦しみ続けて本当に辛かったであろう。
少し経つと駅員が、自分の腕時計を見やりつつ尋ねた。
「看護婦さん。妊婦さんをそろそろ・・・タンカーに載せてもいいですか?」
そこは公共の移動手段である。大勢の乗客が発車を待つ。すでに発車時刻に数分程度の遅れがでている。駅員はできる限り早期に運行を再開させたいのであろう。
業務のため、やむ終えぬ。しかし果たして妊婦は耐えられるのであろうか・・・
こちらが気をもむまでもなく、若い女性は一瞬にして状況を判断した。
「わかりました。だけどこの状態の妊婦を動かすことは大変危険です。シートからタンカーに載せる際には絶対に揺らさないでください。必ず!」
そう念を押した後に、「どなたか男性4人でタンカーにゆっくり載せて下さい」
その指示に従い、私と他の男性乗客と駅員2人がタンカーの四方を囲んだ。
私は妊婦の左肩を抱える役目を引き受けた。
4人で息を合わせるよう、お互いがタイミングを諮る。どんなことがあろうと、この女性を落とすわけにはいかない。もし、そんなことがあったら配偶者にも申し訳が立たぬ。また生まれてくる命にも・・・
私の肩には普段以上の力が入っていた。
「ゆっくりお願いしますね。」と、お互いが再度、目と目で合図。
「では、いっせいの-」
無事にシートからタンカーへと妊婦を移動させることができた。
しかし、この時に見た妊婦の表情は実に固く厳しいものであった。
看護婦は引き続いて駅員に指示する。
「くれぐれも揺らさずに、ゆっくり歩いてください・・あっ、そこに段差があります。」
それから看護婦は、タンカー上の人となった妊婦の手をしっかり握り、寄り添うようにホームから降りた。
片時も妊婦から目を離さず、また言葉で勇気づけていた。
タンカーがホームに降り、しばらく経つと救急車のサイレンが響いた。
「よし、早いぞ!よかった。これならきっと大丈夫。あの人はついている」
車両の人が思わず口走った。私も全く同感であった。
タンカーを囲う一行がエレベーターに乗り込みドアが締まるのを確認すると、今まで緊張していた乗客も落ち着きを取り戻したのか、騒ぎが起きる以前に時を戻したかの如くそれぞれの営みをはじめた。
「よし、妊婦さん。頑張って良い子を産んで!今日の苦しみが吹っ飛ぶほど幸せな出産でありますように・・・」
最後の最後まで腰を折り曲げながらも妊婦を窺い、エレベーターにも同乗した若い女性、いや看護婦の姿が目に焼きつくこととなる。
それから少し経つと、別の駅員が妊婦さんの所持品を引き取りにきた。
たまたま客同士の手渡しリレーにより、私も手にすることとになった大きな旅行用バッグは手にずっしりと重く、男性でさえ片手で持つのに容易ではなかった。
「もしや、入院のため病院に向う途中では??大都市でも産婦人科が少ないとのニュースを度々耳にするが・・・」そんな想像をしつつも、大きな荷物と妊婦とではつじつまが合わぬことが気になり仕方なかった。
車内のアナウンスに続き、運転は再開された。
少し動き始めた車窓からは、救急車のものとはっきり分かる赤色の点滅ランプが確認できた。今頃妊婦は、若い女性の手より救急隊にしっかりと引き継がれている頃であろう。若い女性が献身的に妊婦を守りつづけたことで、大切な命は守られたことであろう。これから妊婦のもとに家族が駆けつけて誕生を待つ。そして新しい命がこの平成の世に産声をあげる。
病院で家族と多くの医療関係者から祝福を受けて幸福をかみしめる妊婦の表情と、妊婦と同様の苦しみに耐えて誕生した、たくましい赤子の姿を想像してみた。
看護婦が職業とはいえ、その日若い女性がとった凛とした行動に感動し、心震えた。
誰もが待ち望んでいた救助を咄嗟に自分の任務と決め、それからは一途に目的のために任務を遂行する。その瞬間に魂をささげ、我が身の存在を苦しむ相手に宿す。
無我の境地、そこにあるのは人として生き、役割を精一杯演じる姿。それこそが仏の姿そのもの。
平成の時に入り、命の尊さを軽んじる空気を時代に感じる。人間が人間を大切に思わなくても良い時代の風潮、苦しんでいる人をそのまま見殺しにする社会。
だけど人は一人では生まれてくることなど出来ない。こうして多くの人の愛や支えにより初めてこの世に現れることを、感謝の気持ちとともに忘れてはなるまい。
社会を憂いてばかりいても何も生じない。壊れゆく時代が必然であると考えるのであれば、その原因を見極め、断じて自分の役割を見つけて働きかける他ない。また、こうしている間も無垢な新しい命が愛に包まれて生れ落ちる。
「この時代に責任をもち、自分にできることは何であるかをいつでも考えること。」
そんなことも、この貴重な経験を通じて考えることとなる。
(広島の詩人で栗原貞子様の詩を引用させていただきます。)
こわれたビルディングの地下室の夜だった。
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク1本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声が聞こえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。
マッチ1本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも
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