苦行探求 2009

苦しみとは生きること也。

人は生れ落ちる時、また死に向う時も等しく、もがき苦しむ。

老いて人生とは苦行の場と知る。

苦と楽を識別する分別こそ処世に拠る。

欲望と同じ数だけ楽があり、そこにはまた苦があることを知る。

分別の後、苦の道を選択するを楽也と心得る。

初めより苦を選べば、最大の苦たる「後悔と呼ぶ苦」がその場で滅する。

されど時の経過より森羅万象が移り変わるはこの世の常。

久々に訪れた楽の次はさらに進化を遂げた楽、つまりは大いなる苦の始まり也。

苦や楽に身や心を奪われ疲れ果てる。すると変化こそまさに苦と感じる始末。

自己保身の心ある限り、楽や苦などの呪縛から逃れられまい。

仮にある人が、すべての苦を楽として考えたとする。

すると、時の経過で起こる変化は一切の容赦なく、少しでも楽な状態であろうとする己を責め立てる。

そこでまた、新たな苦が楽とともに生じる。

つまりは苦の源を断じ、その苦を乗り超えるための新しい苦を待ち望む。

ここで、「苦もまた楽し」とする胆ができる。やがては楽と苦という二元的価値観を超越する至福の心境が訪れる。

それにはまず、人生を真面目に生きて多くの経験を積む必要がある。

では、楽をすべからく苦と考えることは容易であるか?

いや、できにくい。できまい。

自然な振る舞いが容易でなく、また不自然が自然になろう。

ゆえに苦を楽とする思考を心地よしとする。

人間は、一日に10億の細胞が入れ替わる。

ゆえに昨日の自分と今日の自分は、似て非なる存在也。

また、脳は自己防衛のため本能の命じるまま記憶を忘却する。

創造主は人を作る際、実によく考えていたものだ。

繰り返すが、人は時と共に移り変わる宿命にある。

ゆえに楽を断じて苦に向う平素の心構えこそ大事といえよう。

苦行に励む我友に、私の座右の銘を贈る。

常に独り行き 常に独リ歩く

達者同じく遊ぶ 涅槃の路

| | コメント (2) | トラックバック (0)

友人と再会!(チーム編)

去る8月16日の日曜日、山形県米沢市でチーム会長と3ヶ月ぶりに再会する。

東北地方の梅雨明けは、結局発表のないまま秋を迎えるという。(気象庁がいつもの意固地な姿勢ではなく珍しく自然体?で臨むことに好感を持つ。)

8月第二週目まではぐずついた空模様と聞くが、そこは晴れ男健在!会長が精悍なまなざしで天空を見上げると、たちどころに鉛色の空から雲が消え青色の可視光線だけが視界を覆う。その日湿気が少なかったせいか、東北高原の空気は都会のそれと異なり一層澄みきって感じられた。

P8160378_4   

米沢駅前で 。体系が妙に違う!

「久しぶり!おい、やせたんじゃない??」

「マーさんも元気そうで!」

時計は13時前、二人とも相当の飢餓状態にある。(いつものことであるが)

「米沢といえば米沢牛!」

電車を降りるとホームには等身大の牛の模型が旅人を待ち構える。地元名産の肉を潜在意識に埋め込もうとするPRであろうが、見ただけで肉料理を連想する人がいればやはり肉食獣科!本能の動きを何よりも重んじるタイプの人種であろう。

因みに山形新幹線に乗車すると、販売員が米沢牛めし弁当の予約受けつけに車内をまわる。ここら辺りから否応なしに肉食モードは盛り上がる!顕在意識との一致により、はじめて猛烈な衝動に駆られる。(余談ではあるが肉食系男は会長で、私は草食系もしくは魚食系。)

二人は駅前にあるステーキハウスを長身を折り、身をかがめて覗き込む。フォークとナイフがジューシーな霜降り肉に突き刺さるリアリティーあふれる見本が大脳を刺激し、と同時に唾液と胃酸を誘発する。

しかし・・・一人前3500円の表示を同時に読み取り互いに目礼した後、素直に先を急ぐ事にした。理性が衝動を抑えた瞬間でもあった?

米沢といえば・・・

ラーメン?そう、米沢ラーメンは今や全国的に有名ではないか!(ホッと息をつく)

ということで地元の人で繁盛している店を探す。店の決定において値段と量はいつでも重要なファクターである。この価値観において二人は相当近いところにある!

しかし昼間の炎天下・・・しかも人口のそれほど多くない米沢駅周辺を歩く人通りは少ない。

結局は赤いのれんが風に勢いよくなびき、それがなぜか手招きしているようにみえた店に入る。

見慣れないメニューの中からようやく注文したのは冷やしラーメン!

P8160379_2 

 

とりあえずいつもの乾杯!

P8160380_4

 

冷やしラーメン定食850円也。味もよかった!

山形といえば、かっては日本一の最高気温を記録した地。極めて厳しい冬の寒さに耐え抜いてきた東北の人にも、夏の日差しは容赦な照りつける。そのためか・・・食事だけでも涼を取りたいと考え、ラーメンまで冷やすのはごく自然な試みといえよう。だけど、冷やし牛鍋はないかも??

3ヶ月ぶりとはいえ、突然の辞令により1600キロ離れた東北の地に単身赴任することとなった、チーム会長の事が気になっていた。また、他のメンバーの想いも同時に伝えた。しかし、食事の際の会長との会話は、それまで不安を払拭してくれるほど明るいものであった。

仕事は順調そのもので、東北の人は親切である。また、住居は現在のところ(夏ではあるが)快適で健康状態に不安はないとの報告であった。

食生活においてはマンションの目前に行列のできる喜多方ラーメン店があるが、一度も立ち寄ることなくもっぱら自炊をしているとのこと。食パンは一度に3枚を食べ、夜はお米2合を食べつくす。また、ジムに入会し、日課として相変わらず肉体改造に向け訓練しているそうだ。

さて、入会時にインストラクターより走力、筋力、泳力どれをとっても非の打ち所がないけど、一体どんなスポーツをしているのかと問われたとのこと。その質問はまんざらでもなさそうではあったが、どうやら彼の強靭な肉体と精神は、今後のジムの雰囲気をも変えようとしている。福島県にトライアスロン人口が増え、またマラソン熱が高まることは疑いの余地がなかった。

その後、天地人でごった返す上杉神社まで歩く。炎天下の2時間、距離にして12キロ程度は歩いたであろうか・・・楽しい時間を共有できた。

(実はランニングの予定をしお互いに着替えとシューズを持参していたが、乗り換えまでの時間が少ないことと温泉が確認できないため仕方なく僅かな距離を歩いた。)

自宅から40キロ離れた米沢まで会いに来てくれ有難う。また熱い夏をとても汗臭い兄貴と過ごせたことを嬉しく想います。自炊してお金をため、来年は是非ともアイアンマンレースに参加して完走して欲しい!

最後にトライアスロンに情熱を燃やすチーム会長は、これから少々の困難があろうときっと乗り越えることであろう。その証拠に、彼の視線はすでに人生のトランジションより次なる目標をしっかり見据え、すでに始動していたから・・・

チームの皆さんに残暑見舞いをかねて、ご報告まで。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

5月10日雑記

「にごり無き、心の水に棲む月は

波に砕けて光となる。」

座禅会で和尚が披露してくれる唄である。

この詩が心に染みる。

灯りを消し薄暗い中、閑静なお寺で耳一杯に聴こえる音は和尚の唄ばかり也。

言葉の1つ1つの意味を味わいながら、アカペラの美声に聞き入る。

唄をもてなす寺は多くないのではないか・・・とは和尚の弁。

座禅に加えて唄まで聴ける自分は果報者。至福の時間に思わず合掌。

この心づくしのもてなしを聞く人は、私をいれて多い日で3人。

冬はだだっ広いお堂を暖めるため早くからストーブに火を入れ待ち構えてくれる。

参禅者が僅か1人や2人の時は、何故か気の毒で仕方なくなる。

また夏は扉を全部開放するので、我々が蚊に刺されぬように蚊取り線香の位置に腐心してくださる。

この座禅会が今日で700回を数えたと和尚が嬉しそうに教える。

700回といえば約15年間も続けてきたということらしい。

「去る者追わず、くる者拒まず」

これが和尚の座禅会に対する考え方である。

1つのことを愚直に繰り返す。その行為そのものが道に至るのであろうか・・・

プロ野球でカープが話題になると止まらない。また、ワンゲル部にいた学生時代の思い出話などは、まるで私達、俗人のそれと変わりない全くの現代っ子である。

スポーツマンでもあり笑顔が優しく親しみが持てる。また、余計なことだが一人身のため菩薩様のような方がいれば紹介してみたい。

「あらためまして700回、おめでとうございます。」と申し上げたい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

横断歩道の意味。

自宅前の道路は、産業道路に繋がる工事が完了した昨年より交通量が激増した。

港が至近のため、日中は埋立て地に盛土を運ぶ大型ダンプの往来が激しい。

ダンプは道路幅の限界まで遮り、けたたましく噴煙をあげ激しく行き交う。

まるで往年の成長過程にある日本を偲ばせる。

さて、この道路であるが元々が住宅地のため信号機の設置がない。

しかも2キロ以上直線が続くため、交通量の減る夜間はマフラーを改造した車や救急車の音が闇夜を裂き空中に轟く。

少し前の静寂を想うと、往来が続く家の前の道路と車を恨めしく見つめる時が多くなった。

あらかじめ想定こそしたものの、ここまで交通量が増加するなど考えにも及ばなかった。

道路を隔てた数メートル先に渡ることすら苦労がいる。断続的に車が続く中、皆は信号待ちの一瞬の間隙を諮り、勢いで横断するのである。

いつ頃からだろうか・・・横断歩道は歩行者の安心して渡る道ではなくなった。

その場に立ち止まれど車は減速こそすれ停車することが珍しくなった。

そのせいか、最近の歩行者は横断歩道を「ないよりまし」な歩行エリアと位置づける?体験から学習した自衛本能であろうが納得しているわけではない。

さて、ますます本来の使途で活用されなくなった自宅近くの横断歩道でのエピソードである。

ある時、家の前でお年寄りから「交番はどこですか?」と尋ねられた。

一見ではあるが、気品と知性が自然ににじみ出る立派な紳士に見受けた。

交番の場所を教えた後、老人は語る。

「この横断歩道で向かいに渡ろうとしたが車は停車する気配もなく、また手を挙げても応えてくれなかった。ここは大変に危険な場所であることを交番に行き報告したい。」

丁寧で落ち着いた言葉遣いであったが、運転マナーに対する厳格な憤りを感じた。

「これで抗議は3度目です。道路向かいに友人が住んでいるのでこの道をよく横切ります。しかし、横断歩道に差し掛かると我々年寄りだけでは苦痛です。なにしろ通行させてくれない。以前にどうしても車が停車しなかった時、手を真横に伸ばし体を張って横断したことがあります。こんな道路に白線を塗ること自体、税金の無駄遣いではないでしょうか。こんなに酷い仕打ちはない。横断歩道で歩行者が怖くて渡れないなど昔は考えられない話です。こんな横断歩道なら即刻封鎖すべきです。そして今度は信号機をつけた横断歩道になるよう交番に再度、嘆願したい」と続ける。

「信号機の設置なら警察ではなく市役所の管轄ではないですか」と聴くと

「先に市役所を尋ねるとそこで信号機の設置は警察と知り、その時も最寄りの交番に掛け合いました」とのことであった。

お年寄りもつい最近まで、車を運転するドライバーであったとか。これほどマナーが乱れたのはごく最近ではないかとも語っていた。それからしばらくお年寄りとその友人は高校の教員仲間であるなど語ってくれた。

最後にお年寄りが残した言葉が胸に突き刺さる。

「自分さえよければ良いという日本人が近頃は急激に増えた気がします。不正が横行し正義が影を潜め、また人が人を大切に扱う社会でなくなったからでしょう。この国は本当に魅力に乏しくなりました。」

罰金などの厳しい規制がないからか・・・横断歩道を渡る人が例えお年寄りや幼い子供であろうが容赦ない。皆やっていることだから自分も許されると考える。

ドライバーは車から降りれば直ぐに歩行者となる。それゆえ車のドライバー感覚を知ることで、歩行時は危険を察知し自らを守る。しかし、車を普段から運転しない人はいかにも無防備である。彼らはドライバーの悪癖やいじわるの多くを理解しない。

これは悲劇に通じる理由の一つかもしれない。早朝の歩行時にお年寄りが事故に巻き込まれるなどまさに思い当たるところではないだろうか・・

さてこの横断歩道は通学路でもあり、学校からも度々危険箇所との指摘があった。

さらに詳しく話すとこの歩道以外も危険な数箇所があり、それぞれに朝の登校時は父兄会が当番を決めて、旗を持ち児童の横断を助ける。

また、父兄と学校は声を合わせて警察に信号設置を申し入れているようだ。

だが、警察からは予算がないのでしばらくは設置できないとの返答が続いている。

何かが起きてからでは遅いというのに・・・

行政側の対応には首を傾げたくなることが多い。

都会の横断歩道は信号機とセットが多い。しかし、新しい道路ができたり急に交通量が増えた場合は順番待ちになる。

一体どれ程待てば順番になるのか警察の説明が欲しいところだ。

では、法律や行政の力で補えない部分は一体どうすればよいか?

地域の大人の知恵と行動力により補う以外に方法はないと思う。

児童の下校を見守る、緑色のジャンバーを着たボランティアの方々には本当に頭が下がる。

このボランティアの方々に負担を掛ける,掛けないはドライバーのマナー次第である。

横断歩道で停止する僅かの時間を惜しむほど忙しい様子には見えない。

また、我先にと急いでも結果はたかがしれている。むしろ気持ち良く横断を助けるほうが運転していても爽やかな気持ちになれるのではないか・・・

要はついこの前までの自分に戻ればよい。最近のドライバーを敢えて見習う必要はないのだから。

正しいと想ったことを素直に実行出来る人を大人と呼ぶ。

今回のお年寄りの件より、自分の運転も大いに反省するところが有ると考えさせられた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

平成の世に、生ましめんかな。-②

その妊婦さんは停車駅までの間、じっと苦痛に耐え続けていたんだ・・・

男である私にとって想像すら出来ない辛さではないだろうか。

理解できない上に感情まで移入すると心が錯綜する。

出産に臨む際、あと少しで対面する我が子の顔を想像することで次々に襲い掛かる苦痛に耐える・・・聴いた話を思い返す。もっとものように聞こえるが、やはり体験なきゆえ分からぬところがもどかしい。

出産の苦しみに比べ男の抱える苦悩など・・・そう考えると、「女性には逆立ちしても太刀打ちできないもの」とは、私が性差を考える時の結論となり久しい。

「苦しい、苦しい。」

うめき声が次第に大きくなる。

事態を見極めようと、幾人が近くまで歩み寄り様子を伺う。しかし手がつけられぬ程、緊迫した状態を目の当たりにすると、しばらく立ち止まり様子は見つつも、一応に心配そうな面持ちで座っていた元の場所に戻る。

最初に妊婦に声をかけた男性は、その後も誰よりも心配そうに妊婦を見守りつつ、呼びだした乗務員の到着を気にやり周囲を幾度も見渡した。

車内は張り裂けんばかりの緊張感に包まる。

30秒程が経過したであろうか・・・・

ようやく若い女性乗務員、続いて男性駅員2人が駆けつけた。

男性駅員は様子を伺った後に職務的質問を試みたが、妊婦は答える状態にない。

横から先の男性客が妊婦に成り代わり状況を説明し始めた、その時であった。

「息が苦しい。誰か助けて。。。」 

千切れるように悲痛な声が辺りに響き渡った。

一刻の猶予も残されていないことは誰の目にも明らかであった。

駅員が別の男性駅員に救急用タンカーの持ち寄りを命じた。

その時の私は、ただ状況を見つめて先を案じるだけでとても冷静な状態になかった。

「この妊婦に何もしてあげることができない。また、苦しんでいる人を前に、これだけ大勢の人が何の手助けもできない・・・」

時が経つにつれ苛立ちが募る。

女性乗務員と男性駅員も、判断つきかねる様子がありありと伺えた時である。

一人の若い女性が、真っ直ぐ妊婦さんに歩み寄ってきた。

年齢は20歳代前半であろうか、小柄で大人しそうな女性であった。

(他の車両から移動してきたのだろうか?あまりに不意に現れたので、どこから来たのか判断がつきかねた。)

その女性はたどり着くやいなや、今まで自分の首に巻いていたマフラーを脱ぎ、そっと妊婦のお腹に載せた。そして妊婦のお腹をやさしくさすりながら駅員に向かい語る。

「妊婦さんの体を直ぐ横にして、寝かせてあげて下さい。この座った状態が妊婦はもっとも苦しいのです。シートをゆっくり揺らさないように倒しましょう。」

若い女性ではあったが、落ち着いて語る口調には年齢を超えた威厳すら感じた。

3人の駅員は言われたとおりシートを横に倒した。

若い女性はお腹をさすりつつも、今度は横たわることになった妊婦に問いかけた。

「何週?痛むのはどこ?」

すると妊婦のほうからはっきりした返事が返る。

「36週です。この辺りが・・・」

若い女性からは容態を伺う話がしばらく続いた。その表情は依然厳しいものの、妊婦は質問に応じていた。

「何か凄い人が現れた。この女性はこのような緊迫した現場の経験を積んでいる人に違いない。その証拠に実に堂々として落ち着いている。また、行動に迷いが見当たらないし、無駄な動きを一切しない。」

しばらくして駅員が尋ねた。

「失礼ですが・・・看護婦さんですか?」

その若い女性は、さして大したことでもないことにやむ無く答える様子で軽くうなずく。

その一瞬でさえ、相手の変化を見逃さぬ峻厳なる雰囲気があった。

「大丈夫、私がついているから。絶対に安心して。心配しないでね。」

繰り返し、諭すように妊婦に言い聞かせていた。

シートを横に倒したことで姿勢が楽になり、また頼れる存在をそばに得たためであろうか・・・あれほどまで激しく痛みを訴えていた妊婦が、少しづつではあるが落ち着いてきていた。

看護婦さんが妊婦のいる車両近辺に乗り合わためぐり合わせに、思わず神に感謝したくなる。(否、神様の語彙そのものを自分なりに解釈すると、まさに神様である。)

しかし、離れた車両では事態に気付かずにいたであろう。本当によかった、と心より安堵した。だけど妊婦は、たった今まで一人で苦しみ続けて本当に辛かったであろう。

少し経つと駅員が、自分の腕時計を見やりつつ尋ねた。

「看護婦さん。妊婦さんをそろそろ・・・タンカーに載せてもいいですか?」

そこは公共の移動手段である。大勢の乗客が発車を待つ。すでに発車時刻に数分程度の遅れがでている。駅員はできる限り早期に運行を再開させたいのであろう。

業務のため、やむ終えぬ。しかし果たして妊婦は耐えられるのであろうか・・・

こちらが気をもむまでもなく、若い女性は一瞬にして状況を判断した。

「わかりました。だけどこの状態の妊婦を動かすことは大変危険です。シートからタンカーに載せる際には絶対に揺らさないでください。必ず!」

そう念を押した後に、「どなたか男性4人でタンカーにゆっくり載せて下さい」

その指示に従い、私と他の男性乗客と駅員2人がタンカーの四方を囲んだ。

私は妊婦の左肩を抱える役目を引き受けた。

4人で息を合わせるよう、お互いがタイミングを諮る。どんなことがあろうと、この女性を落とすわけにはいかない。もし、そんなことがあったら配偶者にも申し訳が立たぬ。また生まれてくる命にも・・・

私の肩には普段以上の力が入っていた。

「ゆっくりお願いしますね。」と、お互いが再度、目と目で合図。

「では、いっせいの-」

無事にシートからタンカーへと妊婦を移動させることができた。

しかし、この時に見た妊婦の表情は実に固く厳しいものであった。

看護婦は引き続いて駅員に指示する。

「くれぐれも揺らさずに、ゆっくり歩いてください・・あっ、そこに段差があります。」

それから看護婦は、タンカー上の人となった妊婦の手をしっかり握り、寄り添うようにホームから降りた。

片時も妊婦から目を離さず、また言葉で勇気づけていた。

タンカーがホームに降り、しばらく経つと救急車のサイレンが響いた。

「よし、早いぞ!よかった。これならきっと大丈夫。あの人はついている」

車両の人が思わず口走った。私も全く同感であった。

タンカーを囲う一行がエレベーターに乗り込みドアが締まるのを確認すると、今まで緊張していた乗客も落ち着きを取り戻したのか、騒ぎが起きる以前に時を戻したかの如くそれぞれの営みをはじめた。

「よし、妊婦さん。頑張って良い子を産んで!今日の苦しみが吹っ飛ぶほど幸せな出産でありますように・・・」

最後の最後まで腰を折り曲げながらも妊婦を窺い、エレベーターにも同乗した若い女性、いや看護婦の姿が目に焼きつくこととなる。

それから少し経つと、別の駅員が妊婦さんの所持品を引き取りにきた。

たまたま客同士の手渡しリレーにより、私も手にすることとになった大きな旅行用バッグは手にずっしりと重く、男性でさえ片手で持つのに容易ではなかった。

「もしや、入院のため病院に向う途中では??大都市でも産婦人科が少ないとのニュースを度々耳にするが・・・」そんな想像をしつつも、大きな荷物と妊婦とではつじつまが合わぬことが気になり仕方なかった。

車内のアナウンスに続き、運転は再開された。

少し動き始めた車窓からは、救急車のものとはっきり分かる赤色の点滅ランプが確認できた。今頃妊婦は、若い女性の手より救急隊にしっかりと引き継がれている頃であろう。若い女性が献身的に妊婦を守りつづけたことで、大切な命は守られたことであろう。これから妊婦のもとに家族が駆けつけて誕生を待つ。そして新しい命がこの平成の世に産声をあげる。

病院で家族と多くの医療関係者から祝福を受けて幸福をかみしめる妊婦の表情と、妊婦と同様の苦しみに耐えて誕生した、たくましい赤子の姿を想像してみた。

看護婦が職業とはいえ、その日若い女性がとった凛とした行動に感動し、心震えた。

誰もが待ち望んでいた救助を咄嗟に自分の任務と決め、それからは一途に目的のために任務を遂行する。その瞬間に魂をささげ、我が身の存在を苦しむ相手に宿す。

無我の境地、そこにあるのは人として生き、役割を精一杯演じる姿。それこそが仏の姿そのもの。

平成の時に入り、命の尊さを軽んじる空気を時代に感じる。人間が人間を大切に思わなくても良い時代の風潮、苦しんでいる人をそのまま見殺しにする社会。

だけど人は一人では生まれてくることなど出来ない。こうして多くの人の愛や支えにより初めてこの世に現れることを、感謝の気持ちとともに忘れてはなるまい。

社会を憂いてばかりいても何も生じない。壊れゆく時代が必然であると考えるのであれば、その原因を見極め、断じて自分の役割を見つけて働きかける他ない。また、こうしている間も無垢な新しい命が愛に包まれて生れ落ちる。

「この時代に責任をもち、自分にできることは何であるかをいつでも考えること。」

そんなことも、この貴重な経験を通じて考えることとなる。

(広島の詩人で栗原貞子様の詩を引用させていただきます。)

こわれたビルディングの地下室の夜だった。

原子爆弾の負傷者たちは

ローソク1本ない暗い地下室を

うずめて、いっぱいだった。

生ぐさい血の匂い、死臭。

汗くさい人いきれ、うめきごえ

その中から不思議な声が聞こえて来た。

「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。

この地獄の底のような地下室で

今、若い女が産気づいているのだ。

 

マッチ1本ないくらがりで

どうしたらいいのだろう

人々は自分の痛みを忘れて気づかった。

と、「私が産婆です。私が生ませましょう」

と言ったのは

さっきまでうめいていた重傷者だ。

かくてくらがりの地獄の底で

新しい生命は生まれた。

かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。

生ましめんかな

生ましめんかな

己が命捨つとも

                  

| | コメント (2) | トラックバック (0)

平成の世に、生ましめんかな。-①

先日の出張時に遭遇した感動の出来事である。

それから時間こそ経過はしたが、益々鮮やかに脳裏に蘇る感動の場面を思い返しつつ、興奮さめやらぬ情景を自らの記憶に留めるべくここに書き下ろす。

その日、私は関西、名古屋方面に出張の最中であった。それは丁度夕刻に大阪から京都に向う在来線に乗車していた時に起きた。

乗り合わせた電車に乗客はさほど多くなく、立って乗車しているのは私と僅かに数名いたほどであった。

今思い返すと、この時の乗客の顔ぶれは実に多彩であった。いつもは乗り合わせない時間帯であるから、少々異様な感じにさえ映る。

語らずとも仲むつまじく寄り添うお年寄り夫婦、イヤホーンに聞き入る大学生、話題豊富で生命力に溢れんばかりの女子高校生集団。その中にぽつりぽつり座るスーツを着たビジネスマン達は、メールで手際よく連絡を取り合ったり、またつり革広告をぼんやり眺めていたりする。これらは夕刻ラッシュ前のごくありふれた光景なのであろう。

乗り合わせた電車は、進行方向に向かって2人がけの椅子が通路をはさむように並び、その列は、先頭から後尾まで連なる。途中に乗車口が3箇所。私はといえば真ん中のドアに寄りかかりながらも、車窓から見える久しぶりの大阪副都心の様子を眺め楽しんでいた。以前に長く居住した東京のそれと異なり、低いビルが所狭しと肩を並べている。時折ビルとビルの間より真冬のものとも思えぬ程、大きな太陽が照りつけいささか眩しくもあった。

電車は高槻駅に定刻どおり到着することをとアナウンスが伝えた時である。車両のどこかで、か細いうめき声が聴こえてきた。最初はその声と人を特定できず、幾度となく辺りを見渡した。

すると車両前方で私の立つ位置から前側4列目にいた女性が首を激しく横に、しかも不規則にゆすっていた。椅子は進行方向に並列しているので、私から見ると後ろ姿しか見えないが、苦しそうにうめく声の主はその女性に間違えない。

少し経って、通路をはさみ隣に座っていた30歳代の男性が女性に声を掛けた。

「もしもし、大丈夫ですか?」

そんなことをしばらく繰り返し聴いていた様子であった。

その時はまだ、近くにいた乗客も振り向いて様子を伺う気配などもなかった。

電車はしばらくして高槻駅に到着した。これも後々考えると実に奇妙なタイミングである。

何故なら関西の快速電車は通過駅が多く、10分程度は止まらない。

電車が停車中、状況を的確に判断した男性が電車の前方にある緊急用スピーカーに向って大きな声で語りかけた。

男性     「もしもし、もしもし・・・」

乗務員    「どうかしましたか?お客さん」

男性     「車内にいる妊婦さんが気分が悪いと言ってます。」

乗務員    「分かりました、すぐ参ります。」

それから、車内が急にざわめき始めた。

しばらくして妊婦さんの様子に明らかな変化が見られた。体がより激しく揺れ動き、うめき声が車両全体に響きわたるほどになっていた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

マスコミの功罪-2

今朝の新聞記事によると昨日、総理はハローワークを訪れたらしい。

その際、工場で働き契約期間切れで失業した男性に向かい「目的意識がないと就職は難しい」と語り、またもや物議を醸している。

相手は舌蜂鋭く、政敵を切り捨てる野党第一党のH氏。

その発言を的外れと一蹴する。

理由としては

「その彼(失業者)は仕事が思い通り見つからないからこそ、ハローワークに来ているんだ」と真っ向から掛け合う。

どちらのコメントも、あくびが出るほどごく当たり前の話である。取り合うのも間が抜ける。

しかしこの議題、今や国民の関心ごと。2人とも実に大真面目にとらえている。

この話題からも世論を作り一定方向に操る権力の存在を垣間見る。

さて、この2人の政治家であるが・・・

現在有利なサイドが相手の敵失を狙っていたかのように思わせる報道。大衆を操る例の権力がいつもの無為なる作為より、2人の発言を誘導したのかどうか、また敵失を故意に誘いにかけたか・・・

しかし所詮は足の引っ張り合いに過ぎぬ。いずれも国家の窮乏とはおおよそ無縁の緊張感なき茶番にしか聞こえぬ。

昨今の政治家に言質の重みについては差し引き、政局の行く末を見越したかどうか、品性に欠ける話題が多くなる傾向が気に掛かる。

その総理、連日の高級ホテルのバー通いやカップラーメンの価格を400円に認識していることからか、生活感に乏しい首相と評される。世襲を踏む政治家業のことである。庶民感覚??どなたも似たり寄ったりのところではないか・・・

余談ではあるが、私の好むカップラーメンで250円程度のものもある。味も結構イケル!桁外れの財力を握る総理が、我らが庶民の買回り品の価格認識につき、あの程度のズレで収めたことに安堵する??今年の小麦の値上がり分を織り込んでサバ読みしたことに同情さえも?!

さて今回の総理のハローワーク入りであるが。その彼のイメージを払拭させたいゆえ、少しは国民の現状を肌で感じるべきだとの周囲の声を愚直に実行に移した勇気ある行動だ!またなにをやっても批判がでることも、予期していたはずである。

被災地であれば真っ先に駆けつけるのは行政の長たる任務。仕事にあふれる現場の危機を認識しているかとの野次をかわすため?

とはさておき、マスコミの作為は政権をどうにかしたいらしいと訝る。

この国のマスコミは鮮度の高い話題を、好むと好まざるに関わらず提供することに使命を感じる。スポンサーの金銭事情が悪くなる今後はさらに取材競争の激化が予想される。捏造問題が浮上したが、過激な報道の危険性はさらに高まる。国民受けのみを狙った低俗なテーマが増えやすくなるかもしれない?!

しかし、絶大な権力を持ちながらも議題を投げかけそのまま放置する悪しき慣習。今後、報道の質とモラルの低下を懸念する。

前述したがこれらの報道すべてに付き合い、まともに自らの感情を移入することが精神を病む原因になる。元よりマスコミの性格は偏向性のあるものと受け留めるべきで、また他人の考えと全てに同調する必要がないことも現代を生き抜く考え方として重要!とは私個人の大いなる偏見でもある!?

例えば原油価格の高騰により政府が一斉に援助した漁業関係のその後は?

できればこの円高・原油安により窮状を克服できたその後の事実も知りたい。

なぜなら負の連鎖を断ち切り、救済した政策の正当性につけてもう少し報道する必要性もあるのではないか?問題を投げかけたとまでは言えぬが、知らない人々を認知させた事実は残る。マスコミの後追いで政策ができることもあろう。政策および行政の批判ばかりがマスコミの役割ではない!このまま事態の顛末を知らされなければ、この支援が一部の業界支援に過ぎぬ近視眼的政策と、国民から非難を浴びかねないのではないか?また、自分達の所属する業界に対して優先的に支援をとりつけたいと考えるのは、お隣の国で用意に予想できることと同時にごく自然な話である。

さて、話はそれたが総理の語った「目的意識がないと就職は難しい」

この言葉自体、誰が語ろうと常識的である。深く掘り下げて言葉の奥を読む必要はなさそうだ。

(また、強制してどこかで働かせると何かと問題が生じるものである!?)

つい最近までの若年労働者の職業流動化問題の原因は仕事に対する目的の欠如にあった。

しかし、この急激なる景気後退局面では少し内容が深刻となる。

家計を支えるはずの労働者が失業、しかも日増しに解雇のニュースが飛び交う。

景気が後退したことをまずは認めてほしい。また、弱い人間から疲弊しているこの惨状を政府と行政にいち早く認識してもらい、責任の一角を担うべく救済の手を差し延べてほしい。これらをマスコミの音頭の下で催促している状況であろうか。勿論この役割を否定するものではない。良識の範囲においては極めて大切な報道となる。

しかし法治国家の行政とは法に従い税を集め、特定の職業や業種に偏らず公平に数多くの国民の相互利益になるよう、また大国として世界的な信任を得られるように有効に税を配分する機能を創り出すもの。加えて社会保障により最低限の生活保障をしてあらゆる国民の生活を守ること。これらが最も重要な仕事となる。

景気対策は極めて大事である。しかし、「景気が悪いからすべてを政治の責任にする。」この命題だけでは多くを間違える。景況感は立場により変わるのが常。例を挙げれば円高により救われる業種もあれば沈む業種もある。加えて財政の悪化、保護主義台頭による国家間の紛争などもあわせて鑑みる必要があるからだ。

今回は世界同時不況により弱い立場の雇用を脅かした。また、我が社も含めてすべての企業の存在価値を問われる事態にあるようだ。その事情の中、とにかく仕事をすること!見つけることも仕事。仕事を作りだすことも仕事!いずれの立場であれ自分の役割を精一杯演じるしかあるまい。

今、総理の語りは特に必要ではない。目的とは仕事なり!とするだけで解決がつく。

次にH氏の語りによる、「仕事がないからハローワークにくる」

やはり間違えではない。しか世襲を踏む政治家には理解に苦しむかもしれぬが、求職者の求職活動としてそれだけではいけないとも思う。

大勢の求職者が集中する場所でもあろう。しかも報酬、職種、雇用形態(アルバイト、派遣、正社員)による色分けが整然となされている。アドバイザーに意見を求めると、特に実際に体験しているとは思えぬ仕事を客観的に伝える難しさがあるはずである。偏見を含め客観情勢を求職者に伝えることは、就業する判断を鈍らせる原因になりかねない。

すべてが美人投票となるから、仕事が得にくくなる論理。そこで必要なことは仕事に対する単純化した本来の目的意識。それゆえ、その時はじめて麻生氏の言葉をたどるべきだ。経営者などいつでも失業の危機に瀕している職業。目的がないとすべてがご破算になりかねない。だからこの言葉は自由業の人間にとってはさして抵抗を持たないはずである。

さて、この時代にどうやって生きる?

急激な価値観の変化を伴う時代。他人とも過去の自分とも比較しない。固定化した価値観は幻とし、陳腐化した過去の成功話など元からあったものではないと断ずるべきだろう。

きっと各々がさらに頑張れば、正しい時代が訪れる。他人と同じ道を歩むことに安堵せず、自分の道を見つけて歩く。すると行く先々で仲間がいることに気がつく。

この先のことはわからないけど、専門の経済学者でもこの金融危機を正確にいい当てた人がいない!予測ははずれるためにある!悪いイメージを抱くとそれのみが現実になる。不安は過去における心の記憶(ダメージ)。それを将来の我が身に投影した形に過ぎない。

それならば努力を前提とした、自分と社会の明るい未来を予想してみよう。総理と政治家の皆さんもそれを国民の前に誠実に伝えること!100年に一度の危機などの言葉を多用しない!!気持ちはわからないこともないが、あたかも突発的な災害と切り捨て、すべての責任から逃避するのでなく、真のリーダーとしてわれ先に明るい指標を描く。この指導性のみ国民は求めてやまないのである。そこでマスコミも未来志向により明るい国家を論じていくことを切に望む。

明日はいよいよ防府読売マラソン!ランナーの皆さん。防府の街を42キロ精一杯走り、沿道で応援してくださる方を元気づけましょう!!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

マスコミの功罪。

連日起こる度重なる凶悪犯罪。

しかし、新聞であれば紙面、テレビであればスイッチを閉じたと同時に、犯人とその事件を他人事と見逃す事実に気付く。

これこそ、犯罪(殺人)ほう助になる!?まさに病める時代にあるから。

この問いかけは、日々に蓄積されていく。

連日、過去の惨事に酷似した事件に遭遇する・・・

あの犯人は正気であったか?かっての事件は解決したのか?被害家族のその後は??

記憶が重なることで凍てつくような心を感じつつも、過去に起きた事件と同様に無機質に記憶に上書きされる作業のみが残る。

しかし・・・その肝心の心はさらに病むところとなる。

果たしてマスコミの安易な報道を、このまま無警戒に聴き続けるべきなのか??

最近は、自らの姿勢すら問うことが多い。

誠に残念な予測ではあるが、今後も繰り返されるであろう犯罪により感情が動くことなく報道を受容する自らの存在が甚だ恐ろしくもある!

それゆえ、まさに溢れんばかりの犯罪を報ずるニュースを含め、一切の情報をとる事を金輪際やめてしまいたい!!

このところの報道は、この暗い時代を象徴するかのごとく度重なる凶悪犯罪に心の整理もつかず、ただ疲労が蓄積するばかりである!

やりどころのない怒りの矛先を、この「時代」と呼ぶ不確かなる対象の他に向けれないものか?

否、むしろ時代に生きる存在として、犯罪の責任を共有すべきであろうか?

連日、飽くなく続く非人道的事件を耳にすると、あたかも与えられた運命を享受するかの如く受け留めている自らに気付く。順応といえば聞こえは良いが、おそらく楽な方に流されたい気持ちが支配しているのであろう。

言論の自由は絶対必要である!

しかし、負の連鎖による過多の報道は考え物である!(無為による作為的操作の危険性がそこにはらむ)

また一般人には、メディアの保持する権力による一方的判断を押し付けかねない!(結構大きい存在である。)

責任がないから報道ができる!

との論理では、もはや通用しないほど事態が深刻である。

制御ができないほど人心は疲弊しているものと、一度メディアも考えてみる必要がある!

また報道を受け留める側として、今後は必要とする情報以外を取捨選択する権利を今まで以上に主張する必要があると考える。

重ねて言うが、言論の自由を封じることを到達点としていない。

イデオロギーの有無に関わらず、感情の支配しがちな傾向性を持つ一方的情報の垂れ流しを慎む意味において、情報の出し手と受け手が双方に歩み寄れる落としどころ(妥協点)を見出す!

残念。。。。いささか曖昧なアプローチではあるが・・・

俗的に語れば、せめてテレビにおいては政治、海外、犯罪と別々の枠組みで報道してほしい!

視聴者は少々鮮度が落ちようが、次々に恐ろしい場面が移りゆくスリラー映画に味わう、生々しい恐怖心だけをニュースに求めてはいないぞ。

いや、いっそニュースを見ることをやめた方が良いかもしれない。

すると・・・

「ニュースを見ないで凶悪犯罪を減らそう!」

とのキャンペーンができるかもしれない??

いずれにしても主人公である我々は、どんな時代であれ明るい話題をマスコミに提供する必要がある。としたい!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

野良猫を嫌う資格

私は猫が苦手である。

用心深くもあり、器用に人を使い分ける狡猾さ。また猜疑心、溢れんばかりの用心深さ。

食事に対する執拗な執着心。いかにもアニマルな容貌も頂けない。

カラフルな外見はいろどりにより人目を引付けるが、俊敏さを誇る身の軽さは時として脅威に映る。

夜中に突然遭遇、しかも背後から現れて街路を横断する時など、恐怖のあまり背筋が寒くなる。後から次々に仲間が続くことも不快感を募らせる。

猫の身軽さはそのまま態度(身勝手?)にまで通じると、ついつい考えてしまう。

また人間に馴れきった飼い猫の、飼い主以外の人間に接する態度は実にふてぶてしい。まるで反抗期の少年の様相だ。夜回り先生よろしく!とお願いもしたくもなる。

こいつめ、首輪でもしてなければ・・しばし考えてしまうほど悩ましい。

だから・・

まだ空中にいるカラスの方が許せる。ゴミをあさるところや、ふてぶてしい態度は野良猫とよく似るが、まずは外見が黒一色であることで忌み嫌わる。

では、黒一色でなく、赤とか黄色の色が体に混じれば少しは印象が変わるのではないか?するとカラスの餌場を自治体が設けて、住民が争うように食事を持参する?また、ペットとして飼育する人も増えるだろう。人間の価値観などはこの程度のものであろう。

すると人為による調整のため、個体数も適度に調整されるのではないだろうか?とは想像の世界。

しかし、黒だからとの理由で嫌われるのは猫も同じ?

黒猫が通ると不吉なことがある。この言葉を度々耳にする。

(取引先の運送会社も確かそんな名前、今やこの国の道路を独占的に支配する存在。しかし、その車を見かけなくなると始めてこの話題が浮上するかも?)

さて、本日の出来事である。

ある黒猫が自宅前の狭い道路で車にはねられた。その一部始終を窓越しに目撃した。

ひかれた黒猫はその時、金色の母猫と道路を横断中であった。

ここ最近、度々我が家を訪れ車庫を荒らす野良猫でもある。

子猫は母親と同じ金色が2匹、黒と白の混合と黒が各1匹の合わせて4匹である。

このうち黒猫だけが事故に巻き込まれた。

「ギャー」 猫の断末魔のうめき声が耳に突き刺さる。

黒猫は車に轢かれた直後、数回にわたり空中に向かってジャンプを見せた。

その動きは一見、空に舞う蝶とじゃれてでもいるかのように見えた。

高く空に舞い上がり、体を反転させて着地する。それを数回繰り返す。

しかし見る見る高く飛べなくなり、やがて力尽き道路に横になる。

そしてぐったりとして動かなくなったのである。

その黒猫の横をしゃがんで眺める親猫。突然動かなくなった我が子を心配そうに度々覗き込む。

しかし、黒猫は一度倒れこむと全く動く気配はなかった。

事切れてしまったのか?

その僅か数秒後、空からカラスが甲高く鳴く声が聞こえた。本当に驚いた。

因みにこの辺り、里山もあるのでカラスの数も多い。

私と同様、どこかでこの事故の様子を見ていたのであろう。

異常にも聞こえるほど大きな叫び声をあげた。それは辺りにいる仲間を一斉に呼んでいるようにも聴こえた。

たまたま事故に遭遇した私は、この事態に猫のため何が出来るかを考えた。

(あの猫が苦手である自分が・・・実に不思議でもあった。)

狭い道を次から次に往来する車は、動かなくなった黒猫と心配そうに見つめる親猫のいる場所ぎりぎりを容赦なく通り過ぎる。その時の親猫は、突然の事態にすっかり判断力を見失っている。それほど親猫は失意の淵に追いやられている。

また尋常な猫であれば、真昼の道路上の自転車でさえ気にならぬはずはない。

人間界と同じく悲壮な情景でもあった。いや、小動物ゆえなおさら身につまされる思いがした。

それから先も、この親猫に更なる不幸が訪れることに同情の念を禁じ得なかった。

とにかく、子猫(黒猫)が親猫の目の前でカラスに晒すことだけは避けたい。

また、人間により更なるダメージを加えたくない。

(我々人間の仲間には、ひき逃げだって平気にできる奴もいる。万物の長たる矜持と責任感は一体どこに消えてしまったのか?)

とにかくもうこれ以上、哀れな親猫に迷惑をかけたくはなかった。

ごめん。本当に申し訳ない。

そんな気持ちでガレージに行き、ダンボールを持ち出した。横たわる子猫を安全な場所に移動させるため。

車の往来がなくなった時、そのダンボールを持って猫に歩み寄ろうとした。

すると・・・それまで子猫の様子を伺ってた親猫は私を睨みつけ、行動を制止するよう視線で促したのである。まるでこちらを威嚇するようにも見えた。

その後の親猫は満身の力を振り絞り、子猫を咥え安全な場所に向かい走り始めた。

凄い!僅かの時間にも関わらず、冷酷な事実を受容する。その迅速な決断と行動力はあまりに立派。余程でない限り猫のなきがらをみない理由もそこにあるのか・・・

その時の自分は猫を轢いたドライバーに代わり、親猫に謝罪したい気持ちになっていた。

現在を生きる人間は、どんな動物とも共生できなくなってしまった。文明の進歩の名のもと、人間さえよければとの考えが支配する傲慢な存在にあることに嫌悪感を感じた。

今回の親猫が子猫のなきがらを咥えて去ったシーンは、厳しい環境下で生きる動物の親子像として目に焼きついた。また、親子の絆と、子を守る親の使命と役割についても考えさせられた。

今後は動物と人間という差別的視点でなく、動物として人間を客観視する必要性も感じた。同じ地球の住人として、また時の旅人として。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

雑記-12月3日

本日、会社宛てに電力会社を装った怪しい電話があった。

その電話の内容とは

「中国電力の協力で○○地区をまわり、事業法人の電力設備が正常に機能しているかを調査している。地区の担当が直ぐに判断がつくよう請求書の控えに記入してある顧客コードを電話で読み上げてくれ。」

怪しい内容に加えて品のない若い男の声、その電話口の背後には、電話に向って語りかける多くの男達の声が呼応していた。また、いつものかな?とも考えたがとりあえず確認してみることに。

「貴社は中国電力の関係か?では一体どういう会社名なのか?」ときくと

「中国電力の上のほうだ??」との答え。

回答にあきれてしまいもう一度社名を質問をすると先方から電話を切った。

不愉快だ!しかしあきらかに怪しい。犯罪の匂いがする。

その後気になり、中国電力のホームページにアクセスすると、過去に社員であったことを名乗り、顧客コードを聞き出しその後事業会社を訪問。漏電と診断して法外な費用請求をする新種の詐欺に注意してくれとのこと。

この他に電気料金の還付を装い、金を振り込ます詐欺も後を絶たない。などなど・・・

その迷惑千万な電話の後、怒りをぶつけたくとも相手の正体がつかめないことに苛立ちが募った。また、こうしている間に極悪人により善意の人がだまされてはいないかと心配にもなった。

他人の貴重な時間を奪っただけでなく、自己の欲望のため他人の財を盗み取る。

自らに信用がないため、社会的に評価のある立派な企業の信用を悪用する。

同じ言語を使用する人間同士の信用の根底を覆すかのごとく、悪質極まりない非道な行為である。全く許されない行為である。

最近、度重なり報道される詐欺のニュースが、自らにも影響したことにより、この手の犯罪の社会に対する悪影響を言及したくなった。

現在、多発する犯罪は現実のありのままの社会を投影する。勿論、この社会も現在の大人も総じて誉められたものではあるまい。

これ以上、人心が腐敗しないよう歪んだ権力構造や行き過ぎた拝金主義など、この時代をつぶさに見直す必要があるのではないか?怒りの矛先がついつい自分にも向いてしまう。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

秋の大根は何故か煮え切らない?!

先日書いた失言問題である。

今回の失言騒動におけるN大臣は、民より政党、理念より組織に殉ずる政治家の役割を立派に演じた名優であったとして一連の騒動の幕を引いた。

この世に失言たる台詞を与えられた政治家(役者)は過去に数知れぬほどある。

しかしこのごろの政治は、失言を繰り返すことにより民族にかすかに残る自負や良識すら麻痺させる作為的(悪意的)な意図を感じる。

要するに、その役を大根役者が演じ続けることで、有り余る失政を帳消しとする。

いわゆる負と負を掛け合わせ、ひとまず浄化と導く手法にようやく気付く。ここで民が受ける作用とは、政治不信を募らすことからなる政治への関心喪失である。

民の政治への関心と無関心、これらを巧みに利用することが政治を稼業とする輩の能力として評価される。「機を見るに敏」など・・・

(最近は不正がらみについて官僚まで悪役に仕立てる。だから余計、民は理解に苦しむ。いずれにしても無関心のままでは、権力者より消極的保守支持として受け留められ、まずい政治を助長することになる!とは余談)

そこでこのたびのN大臣に再登場していただく。

これまで多数輩出した名優に、優るとも劣らぬ名演技であった。。

追い詰められた時に見せた、一見したたかにも思える迫真の演技にこそ真実が潜むのではないかと思えども、これまた演技であったのか・・・・絶句!

しかし、退任に続く議員辞職はいただけない!もう少し奥が深い、いや余波があるのではと考えた。

否、余波があれば分かりやすいかなと考えた。その理由は・・・

大臣の喧嘩相手が教育界の大奥。ここが国家権力に抗う勢力であるかどうかは前述のとおり左程関心が向かない。

むしろ大臣に脅威を与える相手としての実力の程、政治に屈せぬ教育に対する信念、すなわち、いざという時の国家権力への対応が知りたかった。そこが教育界の人々が一点に集まる最大の意義とも考えた。

今回の件も含めて、私は誰よりも政治に期待している民かもしれない?

反省も含めて大いに疑うこととする。

至誠にして動かざる者の未だこれあらざるなり。

誠をもって人に訴える時、心を動かさない人が一体あろうか??いやあるまい。

今回の騒動、数あるお粗末な失言問題としてやがて忘却の彼方に消え行く。

しかし、国民の感情には後味の悪さが依然残る。

今後の日本は困難なことを先に処理して、手に入れることを後回しに出来る人をまず探さなければ大変なことになる!

不正に目をそらさず、また我が身を捨て、私欲を断ち切り民のことを考える人に政治を任す必要に迫られる!

今、まさに政治に期待し採点が甘かったこと、政治に期待をもたないといい野放図にしていたことにおいて国民につけが廻る事態にある。

過去における大根役者の任命責任は、総理ではなく国民にある!

もう直ぐ選挙が始まる。この候補者の視線は国民に向っているのか??

自らが出馬する気持ちで政策を吟味し、候補者の一切の詭弁を見抜く!また、マスコミのご都合とムードに酔った一般受けの論説を丸呑みしない!断じて自らの考えを持ち、責任ある投票をする!!

やるべきことはこれだけと考える。ここら辺りでこの件は終わる。いや終われないかも・・・

PS

やばい、世界経済が激震に揺れている。誰か格好の隠れ蓑って言ってるって??

| | コメント (0) | トラックバック (0)

炭は地球をすくう!

今年になり、山の再生に人生を賭けた社長に出会った。私にとっては、とても印象的な出会いであった。年齢は60代前半、物腰の柔らかい紳士でもある。

その社長が山の危機に気付きはじめたのは30年前.国の仕事として山に入り、林業のお世話をしていた時という。

最近でこそ度重なる土砂災害のため山の危機を叫ぶ人が増えたが、当時はその警鐘に耳を貸すことすらなかったという。

日本の林業は、高度経済成長と人口増を支えるべく急速に成長を遂げたが、暫くすると安価な輸入材の増加により衰退を余儀なくされた。林業の成長時は植林が進み、間伐材の処理により木々は生き生きと大地に根を生やしていたが、林業が衰退に向うと一転して放置されたため、次々と木々が立ち枯れしていったという。

また、杉やひのきなどの人工林は天然木と異なり、一度幹を切断するとその切断した箇所から再び成長することはないそうだ。そこは人工の弱さ、自立的な再生能力がない人工林は、植え替えを進めなければ根が次第に朽ちてしまうという。

荒れ果てた山は木々の根が大地に深く根付いていないため、今年多発したゲリラ雨などの発生では、木々は一溜まりもなく土砂もろとも流されてしまう。

一度豪雨に見舞われると流出した土砂により川は氾濫、民家や田畑にまで大量の土砂と流木が襲いかかり見るも無残な爪あとを残す。今年は北陸をはじめ各地でこうした災害に見舞われたことは記憶に新しい。

また、川を通じて流出した土砂はやがて海に到達。漁礁たる藻場を土砂が埋め、魚の生息場所を奪う。海に囲まれ豊富な漁獲量を誇る我が国の漁業も急速に衰退へと向う。これらが環境問題として取り上げられたのは近年であるとその社長は語る。

人間は最後の最後まで破壊し尽くさなければ反省をしない業を持つ。ただ便利と効率を追求することで文明の発達に酔いしれ、地球を自らの手で容赦なく破壊する愚行を重ねた。代償はあまりにも大きい。

炭工場の社長は寂しげ語る。

これからは山を活性化しなければ、人間の命の保障すらなくなる。今そこまで危機が近づきつつあることをまだ分からないか。

そこで彼は自分なりの考え方で循環型社会を提唱する。その内容とは、次なることである。

山に人が入り、その山から間伐材をとる環境をまず整備する。ここには最初に行政の力が必要かもしれない。しかし、間伐材を伐採するために人が入れば山道ができあがる。山に新しい道が出来ると登山客も入る。そこで山の危機を感じる人もあれば、山にある資源を活用したいと考える人が増える。

例えば第二の人生を山のある自然で暮らしたい人に仕事を与えることは、過疎化の進む限界集落などの現状から見ても好ましいところである。その仕事は何かといえば、山を生かすために伐採した間伐材を資源として有効に活用する方法ではないかと考える。それが自分にとっては間伐材の炭化であった。

さて、炭化に関しての一般的見解を述べると、二酸化炭素の排出量は完全燃焼に比べるとはるかに少ない。また、この段階で二酸化炭素の排出を固定できる。加えて植物は成長時において光合成により二酸化炭素を吸収し、酸素を作り出す。

従って炭化による二酸化炭素の排出は、カーボンニュートラルの考え方もあるように石油などの化石燃料を利用するよりはるかに環境に対する負荷が少ない。

化石燃料は数億年前の植物、それをこの時代にまで持ち出し燃焼させることで二酸化炭素を出すことは、ますます温暖化や自然災害を増長しかねないであろう。

炭工場の社長は、それらの考え方を信念とし、山を救うため考えられること全てを実行に移す真の活動家でもある。

その社長の夢は、自分で焼いた炭を砂漠化のすすむ中近東および中国に持って行きヘリコプターでばら撒くことであるという。

砂漠で植物が生育できる環境を作れば、動物も生息できる。また人間も暮らせる。と語る。

アフガンの不毛な大地に水路を引き、食に植えた難民に農作の機会を与えるという、ペシャワール会の中野先生の活動にも通じるところがある。

とにかく熱い!炭でできているのかもしれない。(笑) 固くて熱い社長さんだ!!

世界の不毛な地に炭を撒き地球を救う。彼がこれらを語るとき、その純粋さに心が研ぎ澄まされるていくことを感じた。

よし、できることからはじめよう!!

| | トラックバック (0)

大根役者なら失言はない。

「人生は芝居の如し、上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。」

とは福澤翁のお言葉。役柄の妥当性は置くとして、失言問題後のN大臣は現在、国民の非難を集中して浴びる事態にある。今後の動向も気になるが、正直で言葉の多い人ほど価値観、人生観が分かりやすいのも事実なり、と失言の多い私としては同情も含め少し擁護してみる。

さて、今回の失言騒動であるが、まず成田空港問題はごね得とのコメントは頂けない。行政と住民、支持団体との長期にわたる闘争の歴史があり、そこで見た深刻な事態はこの国の民主主義の在り方や法治国家の意味を根本から考えさせられるものであった。またこれからも歴史から検証すべきところは多い。その結論だけを短兵急に語るから理解されない。歴史は政治の応援団ではないはずである。政権を長期にわたり意のまま操った党の大臣ゆえかどうか、ここら辺りさえもつい懸念してしまう。

次に我が国は、単一民族。これは国内的にいえば先住民への配慮不足が問題であろう。しかし、この我が国は移民を積極的に受け入れない政策を国益と考えてきた。そこだけは他の先進諸国と異なるスタンスを踏襲してきた、との意味であれば百歩譲って理解できないわけではない。しかし政府要人の発言としては不適格である。

最後にN教組についてであるが、N大臣はこれをぶっ壊すと対抗意識をあからさまにし、政治生命をも賭すと語る。そこはマスコミのムードは批判一色である。マスコミは国民の同意を得たものと批判の語調を強める。

この報じる批判内容は、大臣に敵視された巨大組織、N教組の抱える問題や在り方にさほど向わない。言論の自由、結社の自由について憲法で保障されているゆえ、それらを壊してはいけないという論理が批判の根底にあるからだ。しかし、そこだけを強調しすぎるといささかエキセントリック、感情が先行した展開に聞こえる。大臣を大根役者に仕立てあげたいマスコミの思惑が透ける。

しかしそれほど批判に値する言葉であれば、両者の確執について批判を受けた側の論理と、批判した側の論理を冷静に諮ることを示唆することも、メディアの役割ではないだろうか。

勿論、話したこともない大臣の味方をするわけではないが、全体があるひとつの方向に動く時必ず理性の力が失われる。悪感情に充ちた後の心のファイルターは、対象となるものに向ける客観的判断力は奪い去る。そして事実や真相は闇の中に葬られ、ただ憎しみと呼ぶ感情のみ巣づく。政治不安。誰がやっても同じこと・・・よくある語りが頭に空しく鳴り響く。

この理性と思考力を失った全体のムードを警戒する。

さて、具体的にどう対処するか・・・

N教組を否定する、改革すると掲げた理由が、批判を浴びた大臣の個人的かつ一過性の私怨に過ぎぬものかどうかの判断こそ重要となる。問題化する以前の大臣の発した言動を知ることも判断材料といえる。

その面倒ともいえる作業は、失言であるか否かを拙速に、またムード任せに判断するより冷静な行動といえる。

メディアの発する情報の受け売りが、世相を理解したとする姿勢をまずは疑うべきと考える。楽ではあるが経験上、最後に苦痛が伴うことが多い。

民主主義の民の在り方として最低限、必要なことは少数意見、個の意見を尊重し多勢により少数意見を冒涜しないところにある。(絶対民主主義は異なる手法を用いるが・・・これは本日棚上げとする)

さて、引き続いて検証してみる。とはいえ教育問題に深い関心を持たなかったため、今後において時間をかけて疑問を解き明かすとの意思表示も含め、自然に沸いた疑問を掲げる。

まず「このN教組が強いところは教育が弱い。」

この言葉であるが少なからず当たっているのでは??と疑問を投げる。

では、我々の住むH県のN教組は不正のあったO県に負けず劣らず強いのか?

これは仮定から真実へのアプローチ。調査したわけではないが、どこの住民も周囲との相対的教育レベルは関心事といえる。また、地方は都会に対しコンプレックスを抱く傾向がある。そのため、教育に不信感を募らせない意味でも正確なデータの公表が懸命なことと考える。

では公表しない理由とは何か?地域別で学力差を競い合って、教育の質を高めた方がよいのではないか??

当たり前ではあるが先生の質を問うことが、そもそもテストを行なう本旨ではない。(ここら辺りは現在、大阪府で盛んに議論されている様子なので議論の中身を見極めたい!)

現政権と対立しているとすれば、最大の見解の相違点はどの辺りか?今後、政局転換があればどうなる?先般、教員試験不正問題が発覚したが、N教組の内部では事態の重要性をどれほどの危機感を持ってとりあげている?情報提供に協力的なのだろうか??

また、N教組に限らず、古く大きな組織に対して次なる懸念が思い浮かぶ。

良いもの、新しい価値観を積極的に取り入れ、陳腐化したものを勇気を持って取り去る英断が出来ているのだろうか。また、組織が肥大化して、内部で硬直が起きてないか。良い意味での競争原理が働いてないのでないだろうか。組織内部の権力や派閥などに捉われ、現場との温度差があるのではないか、などなど。。。

子を持つ親として、また一般の社会人として、政治と教育分野に専門知識が無いままにブログに思いつくままを書き綴る。

この失言問題により今後はこれらの疑問を打ち消すべく、教育制度とN教組を理解すべき機会を与えてもらったことを大臣に感謝する。

言葉による得失は、立場により常に移ろい変わるもの。現世の他人の評価をあてにするな。と古人も語る。最も真理に命を賭けてきた偉人に対する勇気への賛辞の言葉であるが・・・

さて、ここは頭を冷やして、この度の役者の力量とけんかの背景を学習していこう!

将来を支える子供の教育は、一部の人間の欲望や集団の権力よりも大切だと考える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

携帯は殺傷力を持つ!子供の安全を考える。

15歳になると子供に護身用ナイフを持たすアラブ人の親。子を立派な成人とみなす儀式でもある。

封建時代には他の階級と異なる厳しい戒律により、その時代の精神性をリードした武士階級。

他人をあやめる権利と引き換えに、職務や名誉の為なら命に固執することなく、何時でも自らの命を断つために許された帯刀。

いずれも子を持つ親は、祖先の教えを敬いつつもごく自然に教育する。

「武器を持つ人をかなづちに例えると、彼等にとって問題はすべて釘に見える。」とはアラブの諺。

武力を持つと必ず使用したくなる!とは武の力学。

ただし、自分が所有するものが武器と気がつかなければ少し厄介な話となる。

近年、頻繁に新聞紙面をにぎわす携帯やネットによる子供同士のいじめによる被害である。

そもそもネット文化とは、見知らぬ相手と最初から内面同士の付き合いが出来る過去に見当たらぬツール。また、ローコストかつイントラクティブに情報をやり取りできる優れた文明の利器であることに異論はないであろう。

しかし、何分経験不足の子供に対してこの利器を与える場合、未熟な精神構造ゆえに誤った作用を加えることが多々あることを知る。

個から始まるいじめを多数の声により増幅させる点や、現実以上にバーチャルを信用したがる傾向性により、現社会は数々の悲劇を抱え込むことになる。

特に学校の裏サイト、2チャンネルなどは悪質性が高いところで評判のようだ。

(一体どうやって見るもか分からない自分も、ここは反省が必要か!?)

携帯やネットという便利なコミュニケーションツールが、言葉という凶器を借りて人間を罵倒する。

大多数のネガティブな現状肯定派を、ごく少数の好戦的人間の歪んだ感情操作により戦場に巻き込み、弱者を容赦することなく徹底的に痛めつける!

正々堂々と語れないことはネットで語る。他人を中傷する行為などは、むしろ堂々と語れる場所を与えられたかのごとく見受けられる。

文字に変換すると、悪辣な批判はますます憎悪の念を増長させ殺傷力すら持つ。

「他人を批判することで自らの存在を確立する。」とはよくある手法。

大人でも日常的にあることなら、子供の世界は押して知るべし。

「ネットを通じて他人を中傷することでようやく価値観を共有(?)できるグループができた。これからは仲間同志。同じ穴のムジナである。我々を批判する奴は許さないぞ~。いや間違ってもそのグループから敵視されることだけは御免こうむりたい!」

普通の子であれば考えることが当たり前。

このポジションを確保できたことへの安堵感からか、弱者を見つけては次から次に集団の力で苛め抜く。そんな陰湿な喧嘩が増えているときく。

我々の時代、つまり昔(?)はといえば

集団による暴行を受けても殴られる者に肝が座ってれば、その負けっぷりより、翌日からは散々殴られたにも拘らず殴った方から一目置かれ親しまれたとか・・・

また、勝者はすでに決着のついた勝負(けんか)を長引かせることはしなかった。また、あくまでもけんかに耐えうる精神力を持つ相手を選び、喧嘩の対象としていた。また、殴る側(苛める方)はあくまでも、一線を越えない喧嘩をルールとしていた。

そんなことを語るのは、過去にやんちゃ時代があったとする知人。

その彼はこう続ける・・・

今は違う!完膚なきまでに相手を叩きのめす。相手が強い、弱いなど意にも介さず。その結果として重大な危害を相手に与えるなどは始めから考慮しない!程度をわきまえることを知らない物同志が闘うから、こちらも仲裁したくとも手が出せない。

こう語る彼は合気道、柔道の有段者で、2つの段を足すと軽く二桁を超える実力者。

親と子のそれぞれの時代の喧嘩作法により、(無理矢理にも)今昔の感覚のズレを検証してみた。

さて、大人が利便性を感じてやまないこのネット文化ではあるが、未成熟な子供達に安易に手渡すことになると殊更にタガが必要ではないだろうか?

経験の少なさゆえ、見境いなく発する負の言葉の連鎖が、同世代の子供を絶望の淵に陥れる。過去に起きた悲劇的な事件が我々に警鐘を与える。

今後、殺傷性を帯びた武器ともなりうるケイタイおよびネットの利用につき、大人の議論を重ねていく必要性を感じる。勿論、立法化を含めて・・・

冒頭の話に戻るが、武器を渡すのは周囲が成人と見なしてからとするべきだ。

皆が所有するからでは、余りにも親の責任がない。

我が子だけは大人であって欲しいとする責任のない願望や、子供の所有欲のみを充たすためだけにこれらを与えることは慎むべきだ。

また、いじめとは犯罪。苛める側に大義や理屈など一切ありえない。あますことなくすべてが悪い。これらをさらに親が徹底的に教えるべきでもある。

引きも切らない凶悪犯罪が続く中、一向に減る気配もない校内いじめによる自殺の記事を悲しい気持ちで読み、子を持つ親として考えたことを綴る。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

行きつけの床屋の店長

昨日のブログを読んでくれた友人から質問を頂いた。

何故、諭吉があそこで登場する?

一、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です。
一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。
一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。
一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。
一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。
一、世の中で一番美しい事は、全ての物に愛情を持つ事です。
一、世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。

偉大なる先人の言葉に解説する気持ちなど微塵もありません。

さて、店長といえば・・・

昨日、行きつけの散髪屋の店長から職務中に電話が入る。

こちらから予約の電話をすることはあれど、店長から電話がかかることなどありえない。

不在の伝言メモを確認した後、気になり電話をしてみることとする。

すると・・・

「今週末で店を閉めます。遠いところに行きます。大変お世話になりました。」

まあ、ざっとこんな内容。普段は必要なことでも語らない寡黙な男ゆえ、この単純な内容ですら、こちらが苦労して聞き出したことになるかもしれない。

このやりとりでは、余計に心配が募る!!

思い返せば・・・

彼との付き合いは5年間に及ぶ。毎月定期的に1時間、顔をあわせることを考えると結構頻度の高いお付き合いに間違えない。(ほとんど眠っているから、その半分程度かもしれない)

また、5年間も付き合うと、他愛もない世間話以外でも、店長の家族、店のお客さんの来店状況などの会話もでる。

この街の景況感、一般人の金銭感覚などを知る意味で、床屋の情報は実にりアルタイムに時代を伝えてくれる。そのため自分の感覚のズレに気付くことがままある。

失意による廃業なのか??悪い方に受け留めてみる。否、家庭の事情の方なのか?

「うん、これは行って確かめる他ない!」

髪の毛は気になる程ではなかったものの、その場で最後の散髪予約を申し入れる。

店長から快く了解をいただき、その日のうちに閉店の経緯をきくこととなる。

どうやら悪く捉えたのは、こちらの思い過ごしであった。

さらに驚くことには、彼は希望に燃え、来客数が減り悄然としていた少し前とは別人のように元気になっていたのだ。

その店長が選んだ道とは・・・

広島を離れ、名古屋に新たに店を構える。名古屋には、彼が散髪技術を習得した時代の後輩が3人いる。現在、その3人はそれぞれに店を経営したり、また大手散髪チェーンの従業員として働いている。今後、彼らはそれぞれの職場を離れ、我が店長が経営する店舗を手伝うとのこと。

縁もゆかりもない見知らぬ街で、新しい店を経営することに不安はないか?

親しきゆえに自分ごとの様な気持ちになり、ついつい余計な質問をしてみる。すると、彼の心に不安は一切なく、むしろ事業の拡大に対する夢が止め処もなく膨らみ続けている状態にあるとの返答。

しかし・・・自分の家族(子供2人と奥さん)とは、この一年間別れて暮らすとのこと。また、一年後に家族を名古屋に迎え入れるため、体の続く限りは休まず働き通す覚悟である、とも語ってくれた。

そんなバイタリティーがある男性にはとても見えなかった。(失礼!)

目の前にいる若者(30歳)は、以前とは異なる自信にあふれんばかりの顔つきで、その後もこちらが割り込む隙を与えないほど流暢に、夢を語り続けてくれた。

そして散髪が終わる頃、こう語った。

「最初の店が成功し、事業拡大のため出店する2号店、3号店、4号店の店長は、リスクを省みず現職を捨ててまで、自分の力を信じてくれた3人を間違えなく指名します。そして5年後に再び広島の地に戻り、地元の大勢の人が喜ぶ店を出店します!その時はまた付き合いをしてください。」

別れ際の店長のさわやかな表情を回想しながら、かって感じたことがない程爽快な気分で家路に着いた。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

店長が名ばかりの管理職?

大手外食チェーンの元店長が、訴訟まで起こし遡っての残業代を請求。裁判により残業代の支払いを命じられた会社は、今後、店長職の名称の見直し、仕事内容、および給与体系の変更、労働環境をモニタリングする目的での管理機構の設立などを公表した。

これらの方針の発表を受けたメディアの多くのコメントは、企業はイメージを損なわず世論の批判をかわせる範囲に収めるだけを目的とし、本題である給与および待遇面の改善については解決に至らず問題を先送りにしたにすぎないと伝えた。

属さない会社への経営批判としては、甚だ余計なお世話のように感じたが、たしかそんな内容であった。

その記事を読み、思わずこの記事を書く人と、それを読む人について考えた。

勿論、書く人は会社を維持、運営する立場の人ではあるまい。読む人の大半を被使用人と想定。その人達に向けて、同意を得るための工夫を施したメッセージを送る。そんな狡猾さをマスコミに感じた。不祥事で老舗企業が倒産することを、当然の報いであるとだけ評論することにあまりも酷似する。

新聞、テレビの報道はいつでもキャンペーン。世論の支持が記者の最大の関心事。

良い記事とは商売でいえば儲けのネタ。視聴率や購読数を要求されるマスコミは、自分が発掘し、発信するニュースを、世論の関心事と重なるか否かが大事。要するに記事が一般大衆に受けることが重要。Y興行のコメディアンよろしくだ。

だから・・事実を歪曲させることもしばしばある。その証拠にかって続いた捏造報道などがある。(ここのところ鳴りを潜めているのは、現場が綱紀粛正に努めているのでなく、その記事自体に鮮度が薄いからであろう)

しかし、ここは冷静に考えたい。

今回スケープゴートとなった大手外食チェーンの問題を取りざたする気はさらさらない。(食事のお世話になることがしばしばあるから?!)

この企業、人員の管理方法と食品の製造方法について、25.000以上のマニュアルを数えると聞く。

傍からは実に窮屈に思えるが、それに加えて今後は造反?店長の扱い方なるマニュアルが1つや2つ加わる程度であろう。(従順な社員であれば、他に方法がいくらでもあるはず)

むしろこの問題、社会全体が1つの方向性に傾くことが怖い。

例をあげれば格差社会。

この言葉を他人に対して自分の声で発したと時、それと同時に社会的にも道徳的にも、この言葉そのものに責任を持つ。あるいは言葉の持つ印象以外の感覚を、自らの思考で捉えることが大人としてふさわしく考える。しかし実際は、むしろ責任を放棄したつもりになる人が多い気がする。(本当に弱いと自覚する人は、周囲にこの言葉を語らないと思う)

すべては他人事?いや、自分達が理想として何を掲げ、何が出来るかを考えることがコミュニティー。唯一、動物と一線を画すところのはず!

他人の悩み事を、ただ面白可笑しく聞いて、自分に降りかかりそうな不安であれば、首を突っ込み話の中に割って入る。

その結果として、社会全体が本来あるべき自由闊達な意見を妨げる風潮となる。

理想は他人の権利を迫害せず、平和に全ての人と(人種、考え方を含む)共存する社会。違う考え方でも尊重できるリベラルなコミュニティー作りを尊ぶ。

現在の立場が強い、弱い・・・そんなことだけが問題ではない。

現在はどうやら、これらの観点にだけ偏りすぎている気がする。近視眼的だ!

だから仕事は何よりも報酬(お金)が優先する!

この論理が絶対の命題とすると、その価値観はお金から逸脱できぬ。

世に拝金主義だけがはびこる。

つまりは労働の本質や本人のやる気。はたまた人生においての仕事の意義。全てはお金が代償とするとの価値観の呪縛から一切が逃れられなくなる。

(諭吉様申し訳在りません!)

何はともあれ、いかなる残業代をも支払うべきとの論理とはいささか危険である。

(完全否定ではありません、悪しからず)

またこの議題の本質を問わず、降って沸いた話にただ乗りだけを考えるとすれば・・・

規模に関わらず会社には賃金規定、社員規則がある。(会社の登記に必要)

また、すべての会社には創業者の志と企業理念が存在する。

(創業者がいなければその会社は存在しないはず。)

それらの理念を理解した上で、会社の仲間入りを果たしたのではないだろうか??

現在の世論と迎合?する心地の好いムードに安住したいためだけに、会社を窮地に陥れることを考えていないか?

企業は社会の構成員として道徳心が必要なことはいうまでもない。

言い換えると、会社にも健全なモラルを持つ社員(構成員)が必要ということだ。

一部の企業の店長が名ばかりの管理職との報道により、世間の店長の大半が、職業としての店長たるプライドを傷つけられたことを、まずは考えたくなくとも想像してみたい。

私の知人で店長を生きがいとし、またその店長を目標とする人間が多数いることをあえて伝えたい。

この事例は、店長という職業名と、それに従事する人の名誉を著しく汚したことも長く記憶にとどめるべきであろう。

他人を強制的にコントロールすることで、アイデンティティーを保とうとする擬似インテリに追従することなく、自分の価値観で仕事を捉え、いつも仕事に対して感謝の気持ちを忘れない。疑問があればその場で直ぐに解決する。決して周囲を巻き込まない。

今回の店長にはこんなことを考えさせられた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

朝の不快なもの。

毎朝の日課、お気に入りのジョギングコースではあるが、自分が独占できる時期は冬、しかも寒さが最も厳しい厳寒期に限られる。

少し寒さが緩むと、そこは内海を彩る四季折々の景観が楽しめる場所だけあり、ウオーキングを楽しむ人、犬の散歩をする人々の往来でにぎ合いはじめる。

ここまではまだ良い。しかし・・・気温がさらに上昇するこの時期より、夜に海に集まる人が増える。集団でもあり、ペアでもある様子が、海を臨む護岸沿いの道端に放置されている残滓により判明する。残滓は規則性を持ち等間隔に置き去りにされる。

実際、見ている訳ではないので宴をする人々の年齢は定かではない。お年寄りか、壮年か・・・はたまた若者かは断定できないし、また探求する積もりもない。(しかし何となく購買した品物の種類で分かる気もする)

だが、周囲の風景を損なうこと甚だしい醜い残骸は、食べ物、ゴミを詰め込んだコンビ二のレジ袋、ファーストフードの印字の入った包み、そしてペットボトルやアルコール飲料の缶。宴の様子を誰かに伝える目的があるのかと疑いたくなるほどである。

そしてこの頃は、夏の定番である花火の残骸が目立ち始める。化薬の匂いを周囲に放ちつつも・・・

ゴミを捨てる、食事の後始末をするという一切の責任を放棄した光景を目にする時、その反社会性をありきたりの精神論により一蹴するより、まずはその行為自体を現在の文化の一つとしてとらえてみた。

何故、彼らは外で食べる食べ物の後始末をしなくなったか??

1. 公園、公共機関を含め、手軽にゴミを捨てる場所が少なくなった。(過去のテロなどとの関連性が否めない。)

2. 食材、特に弁当を購入すると、仕切り、調味料の入るプラスチック容器にポリ袋などの包装材料が、食べ物になかなかありつけないほど過剰に存在する。そのため捨てるゴミが明らかに増えた。

3. いざ、ゴミを正規の場所に捨てるとしても、こと細かいマニュアルに基づく分別が要求される。このことは・・・面倒な思考を好まない人を思考停止に追い込む。細かすぎる約束事は、一定の評価が定まるまでひたすら破られることを業とする。

4. 大量に、しかも自由に持ち運んだゴミを捨てることの許されたガソリンスタンドで、近年ゴミの一切が捨てられなくなった。このことは、ゴミを所有した人が移動する際に、かなりの精神的な負荷が生じた。

しかし・・・様々なケースがあり考えても良い対策がでない。コンビニにゴミ箱を増やすとだけ言えまい。

いずれにしても見て見ぬ振りでなく態度で示そう。皆で率先してゴミを移動させる。ゴミを放置しそうなところに花を植える。また、心温まるねぎらいの言葉を添えたゴミ箱を置く。など、など今後はゴミを放置する人の持つ不満やメッセージに暖かい気持ちで応えなければなるまい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

朝が来れば心も晴れる!?

日課として毎朝ジョギングする場所は、広島市西部に位置する五日市港、廿日市港の2つの港と、それらを囲む埋め立て地を周回する9キロメートルのコースである。

毎朝、5時過ぎから走り始める。このコース中に一度も信号がないため、かって自分が創作?した数あるコースの中でもとりわけお気に入りで、定番化して久しい。

この2つの港はかっての漁港から、プレジャーボートの一大停泊地にその姿を変えようとしている。ヨットハーバーも併設され、現代的な景観に変わりつつある。

しかし海が好きな私にとって、飽くことなく海を眺めつつも趣味のランニングを楽しめる!とても有り難いことだ。至福の時間にただ、ただ感謝!である。

さて、初夏のこの時期、潮が高ければ護岸にまで大きなチヌ(黒鯛)を見ることが出来る。

また、これから秋にかけては海面にサヨリやイワシの群れを目にすることも多い。

特に秋の夜明け前は、さながら魚達の運動会の様子を楽しむことができる。

太刀魚やスズキが小イワシやサヨリの群れを追いかけるため、小魚の群れが過剰に集まりナブラが発生、波の音とは似て非なる、騒々しい音が海上のいたるところで聞こえる。

そのリズミカルに波打つ音が、海の中の情景へと想像を掻き立てる。

そのようにいつでも生き生きとした海を照らす四季折々の朝陽もまた格別である。

まさに朝のご馳走となる。

朝陽は、瀬戸内特有の奇怪な島々から一日の誕生を告げる使者でもある。

日毎に出現する場所と、大きさ、発光する色に微妙な変化をもたらしつつも、荘厳なる勇姿を誇らしげに見せてくれる。

その朝陽の照りつけた海面は、夜の深く濃い藍色から、時の経過につれ、次第に鮮やかなクリームソーダ色へと変色する。

空の色に目を転じると、こちらも鮮やかな紅色と黄金色のグラジュエーションを彩る。

赤と青。絶妙な空と海とのコントラストに日々感動しつつ、一日の始まりと合わせ常に新鮮な心持ちになれる。またまた感謝!

そんなお気に入りのコースを走り始めて5年が経過する。

しかしこの時期より、目を覆いたくなる光景が重なり気持ちをふさぐ事がある・・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ここからが花見の本番!!

先週の日曜日は好天に恵まれた。

例年より開花の遅れた桜は、梅雨明け後の真夏の使者、初蝉が一斉に声を上げるかのごとく、あたかも申し合わせたかのように咲き乱れる。いや、咲き誇る。

この辺りでは知る人ぞ知る。川土手の堤に並ぶ桜並木。

花見客が陣取るこの時期を除けば、朝晩はウォーキングする人、犬と散歩する人でにぎあう。

そんな場所をいつものようにジョギング。

何故その場所が花見で有名に?といえば、

その定義とは、大体において桜の本数がいかに多いかの様子だ。

その本数だけが勝負!中身ではない。多ければ多いほど名所になる。

だけどそんな場所で見る桜に限り、後々思い返すと、キャンパスに白と赤の絵の具を

かき混ぜたにすぎぬ印象に囚われるのは、この私だけであろうか??

しかし、日本人の桜好きも少し度を越えてる感がする。

新しい公園が出来るたび、なお飽きもせず桜を植えているのを見かける。

開花の時期は極わずか、後は枯れ木(失礼!)のような木を、これほどまでにたくさん、

しかも律儀に並べたものだ!とくに樹皮の色がとりたてて魅力的で、その美観を通年、

飽くことなく眺められる?とは言い難い気がする。

また、この時期マスコミの報道も桜一色!台風上陸を思わせるばかりの桜前線の

報道に、大衆は扇動されるのであろう。

現代人は最も数多い情報だけを正しいと判断、すばやく自分の思考に落とし込む傾向にある。

また、その作業に余念がない。これでは独自の話題や語彙が必要ではなくなる。

メール全盛の文化は、気に入った文章をコピーし、貼り付けるだけでコミュニケーションが成立する!! この先が長くなるので・・・

閑話休題。

いますよね。いた!いた!やっぱりいた!!あなたですよ!(嘘)

先日、ホームセンターで巨大なビニールシートを購入して、ご自分のパーティーの

メンバー数すら把握しない。また、鯖読みどころか鰯読み?!して

駐車場から一番近い、桜のある場所、また公衆トイレが近いところから大雑把に

敷いていく。シートのレイアウトすらお構いなしに・・・ 

そこの場所!公共の場では必ず弱い方々が優先的に座る場所ではないですか??

また、本当にそれほどの場所が必要なのでしょうか??

皆さんはメタボの会で、必ず酔うとアザラシのように横たわるのですか??

その占有地を覆うビニールシートは、土地の傾斜に応じて後から来る人

の場所の確保を頭に入れ、角を丸めるとか、斜面に合わして斜めにカット

するとかの配慮ができてますか??

朝の9時に通りがかった土手の堤下はいつものさわやかなジョギングコースとは様変わり。

まるで忌々しい震災にあった直後の、空から見た家屋崩壊現場の様相を呈していた。

土肌がところどころにひどく醜く晒されている。実におぞましい!!

起きて半畳、寝て一畳。

権利ばかりを主張している人間のことを必ず桜も見てますよ!!

人が花を見るのが花見なら、花が桜をみるのは人見??

桜だってこちらを見てるに決まってる。

花は自らの美しさを知ることなく、丹念にその生の作業を繰り返す。

その一切の見返りを求めない純真なところが、多くの人の気持ちを和ます。

一瞬の美しさを見届けようとして多くの人が、この時期、様々な想い出の場所に集う。

長く生きると、集まる顔ぶれも年々異なるようになる。あの人はあの頃・・・・

懐かしい人との思い出を、花見に重ねる人も少なくはないだろう。

人それぞれの愉しみ方。やはり普段はでくのぼう(失礼!)だが、桜は価値がある!

花見作法も考えが要ると思う。

それではこの週末のジョギングは、桜が少し散った後の、人もまばらなシートの少ない

あの堤下を走りながらつい、視線があった木の傍で、あの唄の意味を深く味わいたい!

散る桜 残る桜も 散る桜   良寛

PS  M社長様へ

このあと十八番、ケツメイシの桜でいいですか??

| | コメント (2) | トラックバック (0)

少女の大切なもの

今日は生憎の雨模様。2月もあとわずかといえども

今年の冬は寒い。そんな朝の出来事を綴る。

家の前の道路は、朝夕と近くの小学校の通学路となる。

特に児童の登校が集中する朝の賑わいは格別である。

追いかけ合う、肩を回しあう、石をけり続ける。とにかく元気な男子児童。

笛を鳴らし唄を歌う。快活に語り、甲高く笑い続ける。

楽しい表情に明るい声の女子児童。

元気あふれる児童達の登下校の様子はいつ見ても微笑ましい。

さて、今日は朝から雨。

いつもと異なるのは、色とりどりの傘が上下左右に揺れ、躍動感とともに

道路をすっかり埋めつくすことぐらい。ごく普段の朝の光景であった。

児童の登校がピークを過ぎ、人波がほとんど途絶えた時間に、

私は外出のため家の門を出た。

すると目の前を、一人の女の子が学校とは反対方向に、傘も差さずに歩いていた。

また、何かとても悄然とした姿に感じた。

気になる私は、女子児童に声を掛けた。

「どうしたの?学校は反対の方向だよ。」

すると少女は

「お母さんから貰った大切なものを落としてしまったから探してるの」

と答えた。その時、少女の目からは、その時の雨よりも大粒な、はっきりと

涙と分かる粒が、いくつも頬をつたわっていた。

「一体、何を落としたの??」と聴くと

「ネックレス。お母さんから貰った大切な宝物なの」

そんな言葉を返し、そのまま、もと来た道を歩こうとしていた。

「だめじゃない。先生やお母さんが心配するよ。学校に行こうよ。

お母さんに連絡してあげるから、お母さんに探してもらいなさい」

「お母さんはいないの・・・」

「じゃあ、先生に連絡してあげるから待ってて。」

だけどその時、少女は私の呼びかけに反応しようとはしなかった。

「どうしてでも見つけたいんだね」と確認すると

「とっても大切なものだから」

涙にあふれるその眼光は、真剣そのものだった。

「じゃあ、どこで落としたのかなんとなく分かる??」

「この辺りからあそこの信号までの間」

と、100メートル先の信号を指差した。

「きっと見つかるよ。でも見つからなかったらきっと友達が届けてくれたに違いない。

じゃ、あそこまで探して見つからなかったら、その時は必ず一緒に学校に行こうね」

(少女の気持ちより、大人の判断を優先した私が、無理矢理その場を

押さえ込もうとしたものと、後々考えることとなる・・・)

すると、少女は幸運にも私の呼びかけに頷いてくれた。

その後、少女との約束どおり100メートル先の信号まで歩くまでもなく、,

少女の探していた宝物が、僅かすぐ目の前に落ちていた。

少女は自分で見つけ喜んだ。またとても安堵した様子だった。

その後、私は用事のため、家族に少女を学校まで送るよう依頼する。

これから先は、私の家族から聞いた話となる。

その少女の両親は数年前に、何らかの理由で別々に暮らすことになった。

その母親に、少女はほとんど会うこともない様子で、母親から貰った

ペンダントトップを、少女は唯一の宝物としている。

いつも肌身離さず身につけている。驚いたことにそんなに大切な

母さんとの想い出の品を、自分で紐に結びつけ首に巻いていたらしい。

(だから先のペンダントトップが紐から外れ落ちた)

お世辞にも丈夫とはいえない紐を探し、しかも幼い少女が自ら結び

首に巻く・・・・

いつもいつでも一緒にいたいから・・・そんな気持ちであろう。

少女にとって、学校よりも友達より、他のどんなものよりも大切なもの。

だから傘も差さずに、ゆっくり足元を確かめるように、また泣きながらでも

探し続けたことであろう。

引き止めなければ恐らくいつまでも、いつ、いつまでも探し続けたことであろう。

探した時はさぞや安堵したことだろう。

私の家族がその少女を学校に連れて行くと、その時対面した女性教員は

そこそこに事情を聴くなりこう語った。

「そんなに大事なものだったら何故、学校になんか持ってくるの??」

子供の時期を過ごすことなく大人になることはない。

子供の頃も人それぞれに、異なる経験をしてきたことだろう。

子供の目線で・・・といえども、所詮は大人から見た子供。

大人の自分が、今必要としている子供とは、

こうであって欲しい。こうでなくてはいけない。

と、そんな大人である自分の考え方を子供に

無理矢理押し付けたに過ぎぬ。

そんな大人の言動を見て、子供は大人を初めて嫌う。

子供が必要なのは、子供の気持ちが分かる大人。

規則、常識、道徳ばかりを説いても心は通わない。

心の目で子供を見て、心で語る必要をつとに感じる。

子供が傷ついた時、やはり本当に子供の痛みを感じ、

その気持ちにならなければ、何を言っても気持ちは伝わらない。

そんなことを改めて感じた。

少女が落し物を探す時の、寂しそうな後姿が目に焼きつく。

その姿を、少女の本当の親が見たらどう思うのだろうか・・・・

一体、どんな言葉をその時少女にかけるのであろうか??

これからの少女の人生に、幸多きことを心より願い止まぬ。

昔よく聴いたオフコースの歌が、今日はやけに心に突き刺さる。

首輪のない犬をみつけた。何処に行くあてもなく 

何の生きがいもない   涙がこぼれていく・・・・

追記

ブログを書き終えて、その子の親の様子を家族に再度確認すると、少女は

お母さんと分かれて長い歳月が過ぎる・・・とも語ったらしい。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

素晴らしき走友たち!

昨日は小雪も舞い、時折突風が吹きつける中、私の所属する

走友仲間の集いに参加するため、山口県下関市に向った。

そこにアスリート系クラブの名称チーム・ドMの会長が住む。

この度も、会長の自宅を提供して頂き、第2回ド・Mの集いが開催された。

ご興味のある方は、リンク覧にあるブログ名「トランジション」に、事実より

詳細に精緻な文章により描写されてるのでご覧ください。

特に彼のエントリーしたマラソン、およびトライアスロンの大会参戦日記などは、

読むものを瞬時にして彼の世界に巻き込む。魅了し飽きさせることなく。

その場に居合わせた?とこちらが錯覚してしまうほどの臨場感を味わうとができる。

また、世相と人生を語らせると実に熱い!しかも男臭い!!

また、硬派で青臭いところがノスタルジックな気分を喚起し心地良い!

そんな彼は私と同じ80年を青春として謳歌した人に違いない!

彼と是非会ってみたい!と考えると行動に移すことにためらいもなかった。

(実は、この会長のブログ「トランジション」を私が読んだことで彼とご縁を頂くこととなる。)

彼と初対面のマラソン大会より、ちょうど1年が経過。

その間、彼の持つ魔(魅)(身)力?に引き込まれるように集まるアスリートが8名。

佐賀県から福岡、山口、広島の4件にまたがる。

すべてが私と同じく、彼のブログを読んで集まった輩である。

この日、全員が初めて一斉に集まった。

 

異様な盛り上がりを見せたのは語るまでもない。

各々の趣味は自分の体を苛め抜くこと

仕事の合間を作り日々にトレーニングを積む。朝鍛夕錬を日頃の自らに課す。

走る距離でいえば、8人の平均は月間300キロを超えている。

一日で10キロ以上をノルマにしている面々だ。

そんな侍8人を簡単に紹介すると・・・

佳境に入ると一人で104キロを走る。血の滲む努力で、体重を50キロ減量することに成功!驚異的な肥満を克服したランナー。

義母の介護を献身的に努めつつ、貧血と格闘しながら、体に鞭をうち月間450キロをニコニコ走るスマイルランナー。

26歳までプロボクサーを目指し、今はリングがトラックに変われども、果てなき夢とともに走り続ける筋肉ランナー。

幕末に東奔西走した志士のごとく、萩の夜道を黙々と走る21回猛志こと、吉田松陰様似の沈着冷静ランナー。

笑顔の素敵な、お洒落な会話に品格と人間的な魅力あふれる、元エリート高速ランナー。

2年前に血液の癌を発病。その後事実を受け入れ、持ち前の明るさと気力により、見事に死の淵から生還した克己心あふれる奇跡の人。真の鉄人、アイアンマン!

そして、前述の炎の国道ランナーこと、会長と私の8人が集まった。

皆、日頃の練習の話、出走予定のレースのことなどを、飽きることなく語り尽くした。

ウルトラ100キロマラソン、フルマラソン。24時間マラソンの話題に花が咲く!

皆が市民ランナーおよびアイアンマン(トライアスリート)をはいえ、私以外はそれぞれに

素晴らしい実績をもつ面々。仲間の話を聴くことで自らのRUNに対するモチベーションが

うなぎのぼりに上昇することが分かる!!

そんな中、前述した癌、しかも末期がんから昨年生還され、リハビリを終えた後、

すでにレースにも参加できるほど回復されたT氏の話は胸を打った。

ここに彼の言葉を記述する。

癌の宣告を受けた時、気丈な自分も数分間気を失った。しかし正気に戻ると

すべてを受け入れることが出来た。

だから苦しい化学療法も厭わず継続できたことで、生還できたと考える。

医者を信じ、自分の力を信じて、必ず元気になる!

この気持ちを、どんな局面でも持ち続けること。

病は自分で作るもの、また大きくもなり、消えゆくことも事実ある!!

その証拠が私の現在の姿そのものだ!

病は予期しない時、突然訪れるもの。

だから平素の健康管理は、何より優先すべきだ。

特に体の頑丈な人やスポーツエリートは自分の体力を過信しがちなため、

我慢する傾向性が高い。よく心得るべし。

また、末期がんでも必ず治る!もし苦しむ人が周囲にいれば、血液の癌のことなら是非私に尋ねてくれ!

(※この日記を何らかの機会で目にされた方で、周囲に血液の癌の方がいれば、コメントをください。直ちに彼に伝えます。また、今、彼もそれを望んでます)

そんな話を皆の前で話してくれた。

ああ、感謝!回復を心よりお慶び申し上げる。

また、そんな彼とは昨日が初対面。もっと前にお会いできたら・・・とも考えた。

いずれにしても、会長の本音で語る人生観に賛同し、出会うことができた

走るという共通の趣味をもつ仲間達。

これからも人生に多くの障害、苦しみが待ち受けてるかもしれない。

だけどそんな時、すべてを受け入れ、その試練に負けない自分でいるために

毎日厳しいことを愉しい顔でやっていこう!

チームドMとは苦しいことを自然に選び、それぞれに不平をいわず対処し、

変わりいく自分に満足することなく、再び苦行を求め人生の

フィニッシュラインを目指し走り続ける爽やかな男の集団!

皆さん、これからもよろしく!!

PS

どなたか、血の池を泳いで渡り、鉛でできた自転車に乗った後に、五寸釘だらけの途を1キロ4分15秒で走る大会にエントリーしませんか?

ずいぶん先の話になればよいのでしょうけど(笑)・・・

| | コメント (5) | トラックバック (0)

病は気から燃え上がる??

実はこの2週間、病んでいた。

頚椎の神経を壊してしまった。原因は長時間連続して見るパソコンにあった。同じ姿勢で見続けると、首に負担がかかり、肩が凝る。その症状が悪化すると神経を蝕み、最後はあの恐るべし、ヘルニアに近い症状を引き起こしてしまったのである。

病名は頚椎変形症。

パソコンの普及により今や現代病になりつつあると聞く。

今思えば、私の首はもともと弱い!(経営者であることとの因果関係はないようだが?)

成長してからの私の身長は180cmを超える長身のため、立ち話をしていてもよく「姿勢が悪い!」と周囲から指摘され続けてきた。

下を向くのと、上を向くのではどちらがいけないの?と単純な疑問が心をよぎる。こちらは草木と同じく、重力に逆らいながらも何とか直立しているつもり!屋内では、私より背の低いドアと過去より度々衝突した恐怖がトラウマ化したことも、首を折る悪しき姿勢が身についた理由でもあろう。とかくこの世は住みにくい。(引用)

しかし、この約10年間続けたマラソンにより、体力は同世代に引けをとらぬものと自負する。そんな自信が音を立てて崩れたのがこの2週間の出来事であった。

痛い!!ほんとに、マジヤバイッスヨ!

座薬に次ぐ座薬、今度は頓服に安定剤とギャルソネも真っ青な薬のてんこ盛り!レントゲンの後は、お決まりのMRIによる放射能の洗礼!首の牽引やら低周波やら、盛りだくさんの日替わりメニューにも閉口しつつ、一向に改善しないこの症状!

生!点数だけ稼ぎすぎてませんか! 頼むから効果がでてからのカウントにしてもらえませんか・・・ 痛けりゃぼやきたくもなりますよ!!

このまま痛むようなら、あと5分して救急車を呼んでくれ!」

家族にそう訴えつつ「このまま痛みで気を失うのも楽になる方法ではないか!」など不謹慎なことを考える始末。

その間、考えたことは

「今、自分が病であることを考えないようにする!」

 これは大きい!! 養生訓にも確か書いてあった!

とはいえ、痛みが我慢できる時ならまだ良いが、耐え難い激痛の時はどうするか?

とにもかくにも何かに没頭する。無理矢理にでも行動に移す!

痛みは、反射的なものを含め全ては自分の脳(意識)に宿る。痛み(症状)があれば自分は病気と診断し、病院に向かう。医者は豊富な経験と知識から、患者にふさわしい病名を授ける。その与えられた病名は、患者とその周囲の学習意欲を活性化させ、情報が情報を呼び込み、学習による症状をも意識のなかに植えつけてしまう。

やがて病名は、症状とともに潜在意識に刻まれ、存在感を増しながら患者独自の所有物と化す!?ゆえに病名が症状を悪化させないように、くれぐれも気をつけなければなるまい!

いずれにしても、自分は(大した)病気ではないとまずは考えるべきだ。そして病など考えて治るものでなく、むしろ考えれば考えるほど悪化するものであるとも・・・

何が幸いしたのであろうか、私の痛みが急速に意識の世界からなくなっていった。

今回の私の病は長期におよんだことより、影響は軽微とは言い難かった。しかしこの病のもたらした意義をまとめると、あの忌々しい痛みを伴った病も、少しはいとおしく思えるから不思議である。自分を成長させたところもあったことだろう!

「病も気から」

医学が発達した今、医学にそれほど頼れなかった先人の心の教えに素直に脱帽する!! 首の角度を気にしつつ!?

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007年のサンタクロースに望むこと!

今日はクリスマスイブ。

街中はイルミネーションで飾り立てられ、何が模範かよくわからないが、幻想的(現代的?)風景をかもし出す。久しぶりに開いた市の買出しを終えた様に、人々は大きな包みを提げながら人で混み合う師走の街を行き交う。

今が旬よ!と近年,定番化した音楽が執拗までに耳に入り、マスコミはまるで大災害を報道するかのようにフェステバルに沸く人々の様子だけ騒然と写す。

クリスマス。もともとは教会と信者による宗教的儀式(祭典)

この文化が日本の大衆文化に定着した背景には、欧米の豊かな物質文明に対する憧憬があったことだろう。

今、我が国は欧米並みの物質文明を謳歌できるほどになり、その繁栄を象徴するかのごとく、この祭りは過激さを増している!!

バブル期や景気回復期など、この日を、これ見よがしに贅沢三昧する日本人の姿が度々放映された。経済の発展に伴い、商業的意義の重要性が増した。それに伴い宗教的な意義を問うことすら少なくなった。

この文化に対する日本人の精神的解釈はどうだろう??

(勿論、信者を除くが) 2000年の歴史を抱える欧米の宗教的儀式の完全模倣を目的化しているにすぎないのではないか??

精神的思考の支柱をもたぬ擬似行為は、後世の世にまで誤解をもたらすに違いないであろう!

そもそも、愛する人にだけプレゼント(物資)を送り、また送り返される行為を神が推奨しているとは思えない。

この日ばかりは家族を省みようなど語る、本日づけのA新聞の表紙を飾る看板エッセイなどは、とてもいただけない。

この一日の意義を訪れた今日、無理矢理、しかも場当たり的に解釈しようとしても土台は無理な話!

せめて懸命に考えようとするなら、この日はキリストと同じく、人類の幸福を考えるべし。

史上最悪の人道危機、残酷な殺戮が今なお続くスーダン、ダルフール問題は今こうしている間にも罪のない子供や女性が銃弾により倒れている。

内紛が多発するイラクの国民の生活、洪水により多くの人が犠牲になり、なおも治まる気配すらない世界で一番貧しい国、バングラディシュの人々。

皆、同じ時代に同じ空気を吸って生きている!

唯一平等であるはず?の空気の質について責任すら持たないと言っているのは、あの超巨大国!今日一日、とても幸せに暮らしている様子だ。(少なくとも前述の国々よりは・・・)

我が家では今日、そんな話をしてクリスマスの日を迎えよう!

親父なんてきっとサンタさん来ないよ~ って言われるだけだが・・・

このままこの外来文化の上辺だけを、我が子に教えるわけはいかない。

宗教的には異なるが、この日をクリスマスとして迎えるためにキリストの善行を心に刻み、人類の共存と平和を希求する日としよう!

そして子供に教えつつ自分を戒める。

キリスト同様、他人の苦しみを我がことのように考え、多くの人に愛を惜しみなく与える人になれますように!

そして、多くの人々が自分の家族を大切にし、贈り物をする気持ちを人類に向ける。人類皆サンタと化す。世の中は善意の贈り物で溢れる。しかしクリスマスを飾るだけの仰々しい包装紙は必要在りませんヨ!

すべて今年のお歳暮のように簡易包装で構わないからね!!

本日ブログを書き終えた後、何気なくテレビをつけると、日本人がフィンランドのサンタと称する人に会う設定で、その実況中継を放映していた。そこで敬虔な信者のコメントを聞き、今回のブログ内容の中で、クリスマスに対する認識に不足があったことに気づいた。それは、「信者はイブ、もしくはイエス生誕日である25日には、家族以外の人と連絡すら自重し、ひたすら家族といる時間を大切にする」との内容であった。著者の認識不足をお詫びすると同時に、この日の宗教的な重みについて改めて認識することになったことをここに追記する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

選挙に行く心構え その2

いよいよ明日は参議院選挙の投票日である。

与野党の逆転なるか!国民の審判を仰ぐ1日。

などは世論を無責任に(責任をとる必要がない?)

扇動する一大勢力たるマスコミにお任せしよう。

しかし、メディアの情報をによると、

呆れる他ない政府高官の続けざまの失態。

まさに李下に冠を正さず!である。

国民に政治不信は募るばかり。

政治腐敗の影響も多いにあることだろう。

世相を映す反社会的な行為が度々横行する。

しかもとどまることを知らない。

この国の行方は一体??

嘆きだけでは何も変わらない。

政治には浄化作用がある。

過去にも腐敗と浄化を繰り返してきた。

では我々国民はどうすればよいか?

まずは選挙にいこう!

選挙に行かない人は、現在の政権に対する

ネガティブな支持者と強く認識すべきである!!

次に参政権たる権利を得た憲法について考える。

(実は先日、約20年ぶりに103条の条項すべてを

読み返したばかりである。)

憲法により、全ての国民に人身、精神、経済の自由

などの基本的人権は保障される。

それにともない国政を担う公務員の選定、罷免

の権利を持つ。

この権利は国民固有の権利であると15条で記される。

ゆえにこの権利を行使しない手はない。

どれほどまで苦労して先人がこの権利を獲得した

ことであろうか。

まさに他人に依存するべきものでない

個人の大切な権利である。

次に、憲法と法律と司法を解釈すると・・・

憲法とは、国民が現在の政権(政治家)に対し

遵守を促す不侵犯な約束事。

次に法律は政権(政治家)が国民を統治

しやすいように作る国民に対する指示書(規則書)。

そして司法により、憲法と法律が対立した場合に

この法律は、はたして憲法違反か否かなどを

見極める。いわゆるアンパイヤである。

我が国は法治主義たる法治国家。

ゆえにすべての審判は法廷にて執り行われる。

政治家(政権)も憲法違反は断じて許されない。

そのため政治家は憲法を改正したがる傾向にある。

また、作り変えることに使命感を持つ困った輩もいる。

これらは時代を検証することなく、今ある国同士の

利害関係重視する近視眼的な傾向が強い。

そして政党を作り、力の論理で少数意見を

封じ込める。

そこにイデオロギーがあろうとなかろうと・・・

とにもかくにも徒党を組む!

まさに最近の憲法改正における拙速な法改正

などが如実に物語る。

しかし政治家を選出するのは他でもない。

(前に戻るが)主権をもつ我々国民である

憲法で主権在民と謳う国の面目にかけても、

公共の福祉にかなう、正しい考え方を持つ人

選ぼうではないか!

子供の頃読んだ本で「罪と罰」の中にこんな

言葉があった。

礼儀正しい人間は退屈する義務がある。

一体、そんなに呑気でいられますか??

膨れ上がる財政赤字で今後の大増税は

避けて通れない。

また、少子化により、2011年からは100万強の

単位で人が減る国の地方行政は?

老人福祉は?若年労働者の人手不足は?

また年金は?

(データでは、和歌山県の人口程度が毎年減少!)

世界に類のない戦争放棄、戦力不保持、

交戦権の否認を謳う憲法9条の行方は??

トーマスホッブスが次なる警鐘を与えてます。

究極の自由は各人が自己生存のために

何でもする自由。国家とは人民が自由を

放棄した状態である。

先生よ!なんだか寒すぎると・です!!

(何故かヒロシ調で)

だけどそれでも選挙に行く自由は放棄しません。

たとえ真の自由と呼べる代物でなくとも・・・

| | コメント (0)

選挙に行く心構え その1

年を重ねるほど小欲が心を支配する。

必要以上に富をむさぼる欲、自分の力以上に

認められようとする欲、見返りを期待する欲

揚句には消滅してまでも何かを残そうとする欲

まさに足ることを知らない。

このため他人との諍いも絶えない。

恥ずかしさも覚えず自分の欲求を満たす。

そのことだけに心を奪われるとやがては

他人を思いやる気持すら失う。

何人も、知識、経験を重ねると同時に

着実に重たい荷物を身に着けていくようだ。

垢がたまる。

そのため顔も年齢と同じく加齢する。

欲望の数だけしわを刻み、それが顔をゆがめる。

醜い顔に見える人は、世俗まみれの欲に魂を

売り渡したからか・・・(容姿の意味ではない)

加齢するほど顔や表情にますます人生がにじむ。

ただ自然が良い。心が清ければ、歳を重ねるほど

気品の漂う顔と表情になるはずだ。

素晴らしい年輪と感じられることもあろう。

そして人生最後の日までその顔で通せることが幸せ。

垢がたまれば洗い流すことが自然。

心が決まれば得ることも失うこともない。

運命と人生が一体を得る。

このように自然な顔と表情をもつ人を

人生の達人と呼びたい。

お金がある、力がある、キャリアがある、

この程度のことでめがねを掛け直すことなく

同じ街にすむ住人として、人前にでて代表と

なる人を見極めようではないか!

そう、7月29日は参議院選挙

マスコミと政治家により扇動された世論作りに

耳を貸し、甚だイデオロギー乏しい政策に加え、

メンバーの入れ替えは自由!数あわせを主目的

とする現在の政党政治。

これらを連呼するだけの人が本当に必要なのか・・・

(三文役者より、文芸座や吉本のほうが立派にこなすぞ!)

そうだ!むしろ欲の少ない候補人を選ぼう。

本気で窮状する弱者の痛みと真剣に向き合える人。

独り権力者の中に在り、自由と平和を妨げる勢力、

不正の温床たる政党が絡む団体に警鐘を鳴らし、

現代の政治に染まらず、絶えず国民の目線により

国民を見続ける。

小欲でなく、世直しをするんだと大いなる意志に

燃える大欲のある人を選びたい!!

選挙中に目立つ人、政党の将来ばかり気にする人

はやめよう!

しかし選択のため費やす時間は決して多くない。

だからポスターにより度々候補者の顔を確認

することとなる。

理想は・・

心を写す顔そのものに、曇りがなく、選挙でも、

家庭と同じ顔で変わらぬ言葉を語る。

いつでもどこでも誰とでも、同じ穏やかな

顔をしている。

そんな人が愚直に一つのことを語り続ける。

ただ一言だけでよい。

この国と、それ以上にこの地球に暮らす人々に

これ以上の迷惑をかけません。・・・と。 

例年どおり選挙に行きます!

結果を問わず、断じて無私の心にだけ、票を投じます。

また、いつものように自分の名前は書きません!

(すみません、これが私の公約ですが違反した場合、

必ず顔に出ます。悪しからず! 笑)

| | コメント (0)

“天命”

             天命

この言葉ほど使用する場所と相手を選ぶ言葉はない。

また、耳にするだけで衝撃が走り体が固まる!

まるで時限爆弾や雷のようだ。

天命という言葉を発する時、天という名で時空を

超えた絶大なる神(?)の存在を、このときばかりは

肯定する。

その天(神?)はいつも自分の正しい運命を決める

存在であると自覚する。(しようとする?)

受け手も発言した相手の真意を測り懸命に

理解に努める。

この言葉はいつも使い手の運命を決するほど

重大な拘束力を持つ。

言葉の受け手は、まるで魔法をかけられたように

その日を境に発した人物の評価を変える。

天命の意味が、今の時代背景および周囲の理解

を超え、歴史的解釈(評価)は後につづけ!

いわんばかりの反社会的かつ斬新な考え方の場合、

言葉が血生臭く、自己犠牲の香りがする。

また、あまりにも常識的発想であれば、自己の

世界を現世にとどめることに執らわれ、自らの

野望をその場で断ちつつ無意識の敗北感に

酔いしれる印象をもつ。

ゆえに他人の評価が心のよりどころとなる。

従って私は天命という言葉の使用と遭遇を

できる限り避けたい!!

重みにより自ら固まりつつ会話を途絶えさせ

言語はこの他に見当たらないからである。

これからも天命と名づけられた言葉は、呪いと

拘束力を持ち、人を鍛え、また運命を享受する

ことを教えながらも時を超える!

これがこの言葉の天命だったのか・・・・(絶句)

| | コメント (3) | トラックバック (0)

えびす・だいこくマラソンを走り終わる。

ゴールのテープを切る直前は目頭が熱くなった。

完走者一人一人にテープを張りゴールさせる

大会関係者の配慮にはいつも頭が下がる。

このテープを切った瞬間、12時間をかけた

競技とともに心と体の格闘が終わる。

海、山、大地、そして大会関係者の方々、ボランティア

の皆様、沿道で声援してくださった方々に心から

感謝を申し上げたい。

あの12時間を思い返す・・・

前半50キロまでは日本海を望みながら2つの

山を乗り越える。

思わず息を呑む絶景続きの美保ガ関、

岬の景観に魅了される。

自分の足で走って、この眺めが

見られてよかった!!

車のスピードではとても味わえない

贅沢な時間がしばらく続いた。

また展望台など、駐車スペースでの景観が

周辺で最も美しい風景でないことを

あらためて考えた。

50キロの中間点辺りで知り合ったランナーは

印象深かった。

その日の彼は、日常の会社経営者という顔(仮面)を

ゲゲゲの鬼太郎の目玉親父の仮面に掛け代えていた

沿道の人、一緒に走るランナーの掛け声すべてに

丁寧に応えつつも、懸命に走る姿は胸を打った。

吸水時にマスクを脱ぎ、そのマスクを搾ると

滝のように汗が流れ落ちていたことを想い出す。

彼のその日、一日の自分に課するテーマは

「マスクを被り続けて完走したる!!」

脱水症状にも打ち克ち、見事完走を遂げた彼とは

レース中に再会の約束をする。

中間点での軽い食事の後は、コース中、最も険しい

山越えが待つ。

その辺りより次第に、足の疲労感が募る。

ウルトラマラソンの本番は60キロから始まる。

よく語られるフレーズである。

ようやく平地にたどりつくと、眼前に宍道湖が現れる。

この先に目指すゴールがある!

しかし疲労からか、湖というよりとてつもない大海原

に見えてしまう。

80キロから90キロまでは疲れもピークを迎える。

完走が次第に見えてくる。すると、心が緩む。

疲労を首謀する真犯人は肉体と精神のいずれか?

と、私のいつものテーマについて考えはじめる。

距離の長いウルトラマラソンでは長時間にわたり

この問いかけが心を支配する。

完走した時に手掛かりがつかめるはず・・・ 

と奮起して走る。

しかし、給水所で滞在する時間は次第に増える。

そこでボランティアの方々より心暖まる激励の言葉

を受ける。

人は、美味しい食事よりも励ましの言葉によって

勇気づけられる! 誠に有り難い。

いよいよクライマックス、最後の10キロにさしかかる。

心を幸福な充実感が支配し始める。

この辺りより、今までの足し算を忘れ引き算とする。

「あと何キロ!!」と刻み始める頃からは

あれほど疲労した足が軽やかに感じてくるから

不思議だ。

やはり自分の肉体は精神の支配下にあるぞ!

ざまを見ろ!!(失礼!)

と、確信するとゴールの出雲大社が見えてきた。

やはり感情を抑えきれず、ただ、ただ興奮していた。

そしてゴールのテープが・・・

先にゴールした同胞から祝福の声を頂く。

上手い!上手すぎる!

ゴールで口にした水は幸福感とともに心と体に染みた。

12時間振りに腰を下ろして見上げた空は雲ひとつなく、

見事に高く澄んでいた。

日本海に沈みゆく夕日を感傷的に眺めつつ、貴重な

経験をした一日を振り返る。

「皆様有難うございました。また来年も

走らせていただきます!」

その時の仮面は、本日度々使用した苦痛を表す

般若の仮面は二度と使いません!

いや出来る限り使うまい!!

大会名のようにえびす顔、それとも

だいこく様マスク(?)にしようか・・・・

考えていると小石につまずいてしまった。

こんな足ではまだまだ、だめだ!

明日から鍛えなおしてやるからな!! (微笑?)

追伸

大会関係者様の誠心誠意のもてなしに心より

感謝申し上げます。

これからもこの素晴らしい大会が続きますよう!

| | コメント (3)

野球部特待生は胸を張れ!

ここ数日、高校野球の特待生制度が問題になっている。背景を探ると、少子化問題を抱える私立校の運営上の問題と、プロ野球を頂点とした野球ビジネスとの絡みなど、自由競争社会の縮図が浮き彫りになる。

では、エリートと一般を選別する制度そのものに誤りがあるのであろうか?小中学校の塾では名門校進学のための特待生制度を看板とする塾の存在もあると聞く。また、大学においてはスポーツ推薦がまかり通りスポーツ有名人を広告塔として、受験生を集めている様子だ。一般生徒は全てを承知の上、入学する。ますます高騰する大学の授業料負担は、ごく普通の生徒が背負う仕組みだ。

では野球だけがいけないのか?日本のエースと4番が海を渡り、都度その契約金に目を丸くする。(この現象はグローバル的に注目されるスポーツの証し、金持ちスポンサーが多いこともうなずける。)

高校野球は?といえば春夏の甲子園大会は国民的行事として注目されるゆえ、その活躍次第では学校の知名度を飛躍的に向上させる手段になりうる。

それでは他のスポーツに特待生制度はないのであろうか??

野球は注目されるがゆえのスケープゴードであろうか?

次に確認であるが、高等教育は義務教育ではない。

では高校野球規約に反するからと、特待生の受け入れを隠した行為に問題があったのだろうか?(380校も発覚してるのだから、公然の秘密であった気もするが・・・)

本来不正を隠すことはよくないことと学校は教える立場である???

少し前に、理科系の生徒に日本史と世界史を教えなかった進学校があることが次々に判明し話題になったが・・・

この事象は今回のことと不思議に重なる!!

それなら学校側が不正を隠蔽した理由は、学校間の生徒獲得競争以外にも問題が潜んでいるのでは・・・その温床は不正を認めてきた権力なのであろうか??

特待生の皆さん!君たちは純粋に野球好きで、今までも精一杯情熱を注いでいましたね!出場停止とか自粛のムードがあるけど、制裁されるべきは大人達です!そこで皆さんにお願いがあります。大人の身勝手な行動や解釈などに耳を貸さず、更に懸命に練習に打ち込んでください!

その姿こそ真実と、スポーツを愛してやまない大人であれば自ら姿勢を正して反省するはずだから・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

カビ、結露、湿気と闘う乾燥剤屋の挑戦

決意をして半年が経過、本日初めてのブログ作成にいたる。

しかしここまでの道のりは、パソコンの苦手な私にとって

決して容易なことで はなかった。

しかし、マニュアル本のおかげにより、こうして無事、

ブログデビューが出来 たことを 素直に喜ぶ。

時は金なり。

ブログは誰にでも簡単にできるといわれ ていても

パソコンの苦手な輩には不安なもの!

やはりこの方法をお薦めします!

さて、私の職業は乾燥剤屋です。

乾燥剤と一口にいっても、コンテナ、食品、半導体、

自動車部品などの業務用から、楽器、花や

家庭用湿気とりにいたるまで幅広いフィールドを持ちます。

(株)テクノスナカタ

これらの場所、保護したい物体に適応した薬剤を

選択し必用に応じて防虫、防錆、防カビ、防臭などの

機能を組み合わせ商品化することを得意としてます。

カビ、結露、錆などが私の天敵です。これら悪役より

大切な財産、住居、人体を守ることが私の仕事で

あり使命でもあります。

これら私の人生最大のテーマと、仕事以外で

頑張っているマラソン

(今年は100キロマラソンに初挑戦!しました)

下手な横好きの魚釣り(別名 えさまき)

他、政治、社会問題など感じたままを

綴っていきたいものです。

そんなわけでは・じ・ま・り・ま・し・た !

| | コメント (0) | トラックバック (0)